44.境界
文字数 2,328文字
対の関係について、侑子はよく考えるようになった。
――昼と夜。男と女。月と太陽。黒と白。動と静
対に位置する物の間には、グラデーションを構成するように、様々な事象が存在しているはずだ。
それら全てがお互いに干渉しあい、関係しあい、この世は構成されているのだろう。
自分の手に重ねられた、褐色の手が見えた。
指と指の間に彼の指が差し込まれ、力を込めて握られる。鎖骨を、首筋を、耳の後ろを、ユウキの熱を帯びた唇が辿っていく。
彼の体温が、より近くに感じられた。
――境界線は、どこ?
素肌を晒した背中にあたるのは、白いシーツだった。今朝洗ったばかりで、数分前にその上にユウキと倒れ込んだ時、侑子の肌は、ひんやりとした布の冷たさを感じ取った。
けれど今、冷たさは感じない。布の柔らかな感触と、暖かさだけ。
シーツから感じるぬくもりは、侑子とユウキから伝わったのだろう。ぬくもりを生み出したのは、二人の体温。
その熱までが境界だとする。そうすると、シーツと二人の境界線は、どこからどこまでなのだろうか。曖昧になっていく。
「何を考えてるの?」
離れた唇から、ユウキの声が聞こえてきた。
侑子の唇は濡れている。
この唾液は、誰のものだろう。
混ざりあったら、ますます境界は分からない。
侑子の薬指の指輪以外、二人は何も身に着けておらず、手を伸ばせば、侑子はユウキの素肌に触れることができた。
指先がユウキの肩を撫でた。
青い宝石が、僅かな光を引き込んで燦めく。
緑の瞳が細くなって、近づいてきた。
ユウキの肌は褐色で、侑子の肌の色とは、全く違う。灯りを薄く落とした部屋の中でも、ぼんやりと判別出来るほどに。
「もっと分からなくなればいいのにって、考えてた」
「分からなくなる?」
「ユウキちゃんと私の、境目」
くるりと身体を入れ替えて、今度は侑子がユウキの身体の上に乗る体勢となった。
髪の毛先が、ユウキの胸をくすぐった。
硬く筋肉質な身体は、肌の色だけではなく、ユウキと侑子とは、全く違う他者であることを主張している。
ならば彼の意志も、侑子のものではないはずだ。意のままには、ならないはずなのだ。けれどこういう時間の中では、少なくとも半分くらいの確率で、侑子の希望通りにユウキの身体は動くのだった。
上に乗った侑子の身体を、ユウキの腕が包み込んだ。滑らかな背中の感触を楽しんだ両手は、二手に分かれて深い愛撫を開始する。
鼓動は早くなり、時折甘く疼きながら、侑子の口から湿った吐息を誘い出した。
「境目、分からなくしようか」
侑子の頭を引き寄せて、ユウキは彼女の唇を、自分の唇にそっと重ねた。口吻は少しずつ深くなり、その音に呼応するかのように、ユウキの指が差し込まれた下半身から水音が聞こえてくる。
「……とけそう」
荒い呼吸の合間から、ようやく言葉となって連なった、侑子の声。
ユウキは笑った。
しかし、余裕がないのは彼も同じだった。愛しい恋人の扇情的な姿を、見せつけられているのだ。これでもよく耐えていると思いたい。本能のままに蹂躙したい色欲は、いつだって燻っている。
「まだだよ。まだ、とけてない。これからでしょ?――――ほら」
「あっ」
手で支えながら、彼女を導いた。
下から貫かれた衝撃で、侑子はまともな声が上がらない。薄明かりの中で、天井を仰いだ白い喉元が、ぼんやりと浮かび上がっていた。
「このまま俺の上で、踊ってみせてよ」
挑発するユウキの声は、低く、少しだけ息が乱れている。
ユウキが発する低音には、特別強いセックスアピールを感じさせた。
背が痺れるような興奮を覚えながら、侑子は腰を支えるユウキの手に、自分の手を重ねた。
もっと体温を感じたい。
もっと乱れた顔を見たい。
もっと言葉を奪いたい。
こんなに好戦的な自分がいたことを、侑子は知らなかった。
「もう……いいよ……っ」
余裕のない顔が嬉しい。
侑子は無意識に微笑んでいた。
ユウキは上体を起こすと、深い呼吸を一往復させる。その後すぐに、侑子をベッドの上に仰向けに押し倒し、再び深く入り込んだ。
「激しくされたい? それとも、抱き合ったまま、ゆっくりがいい?」
弱く律動を加えながら、ユウキは囁き声で問う。
言葉を吐き出しながら、今にも千切れそうな理性の糸を、辛うじて繋ぎ止めていた。
しかしそんな努力も、侑子の短い返答の後には、呆気なく泡と消えることとなるのだ。
「どっちも」
「……欲張り」
低く呟いたその言葉の後に、二人が意味のある声を出すことは、しばらくなかった。
吐息、喘ぎ、小さな悲鳴と、名と愛を呟こうとして叶わなかった、音の断片ばかり。
人間の精神の正体とは、何だろう。
脳は、神経細胞のネットワークで構築された物質だ。神経突起の上を電気刺激が飛び交い、その結果生まれるのが、感覚と感情である。
「あぁ――――きもちいいっ」
口から飛び出した甘い叫びも、その言葉に反応して強まった強張りも、二人分の神経活動が生み出した結果だった。
極限へと昂る感情の中で、布のほつれが広がるように、自我が解 けていく。
――分からなくなる。もっと、もっと……
自分の名を呼ぶユウキの声と、彼の名を呼ぶ自分の声は、空気中の波となって混ざり合う。
お互いの身体に回された腕と、密着し摩擦し合う肌から伝わる熱と汗は、もはやどちらのものか、判別できない。
身体の最も深層に近い場所同士が、繋がっている――そこは溶鉱炉のように熱く、ドロドロと溶けている。
「愛してる。愛してるよ……」
白濁して揺れる意識の中で、この世で最も憧れ、愛している音が聞こえた。
――境界が消えたら、この声は誰のものになるのだろう
自分の中の小さな宇宙に、閉じ込めてしまえればいいのに。
そう思った。
――昼と夜。男と女。月と太陽。黒と白。動と静
対に位置する物の間には、グラデーションを構成するように、様々な事象が存在しているはずだ。
それら全てがお互いに干渉しあい、関係しあい、この世は構成されているのだろう。
自分の手に重ねられた、褐色の手が見えた。
指と指の間に彼の指が差し込まれ、力を込めて握られる。鎖骨を、首筋を、耳の後ろを、ユウキの熱を帯びた唇が辿っていく。
彼の体温が、より近くに感じられた。
――境界線は、どこ?
素肌を晒した背中にあたるのは、白いシーツだった。今朝洗ったばかりで、数分前にその上にユウキと倒れ込んだ時、侑子の肌は、ひんやりとした布の冷たさを感じ取った。
けれど今、冷たさは感じない。布の柔らかな感触と、暖かさだけ。
シーツから感じるぬくもりは、侑子とユウキから伝わったのだろう。ぬくもりを生み出したのは、二人の体温。
その熱までが境界だとする。そうすると、シーツと二人の境界線は、どこからどこまでなのだろうか。曖昧になっていく。
「何を考えてるの?」
離れた唇から、ユウキの声が聞こえてきた。
侑子の唇は濡れている。
この唾液は、誰のものだろう。
混ざりあったら、ますます境界は分からない。
侑子の薬指の指輪以外、二人は何も身に着けておらず、手を伸ばせば、侑子はユウキの素肌に触れることができた。
指先がユウキの肩を撫でた。
青い宝石が、僅かな光を引き込んで燦めく。
緑の瞳が細くなって、近づいてきた。
ユウキの肌は褐色で、侑子の肌の色とは、全く違う。灯りを薄く落とした部屋の中でも、ぼんやりと判別出来るほどに。
「もっと分からなくなればいいのにって、考えてた」
「分からなくなる?」
「ユウキちゃんと私の、境目」
くるりと身体を入れ替えて、今度は侑子がユウキの身体の上に乗る体勢となった。
髪の毛先が、ユウキの胸をくすぐった。
硬く筋肉質な身体は、肌の色だけではなく、ユウキと侑子とは、全く違う他者であることを主張している。
ならば彼の意志も、侑子のものではないはずだ。意のままには、ならないはずなのだ。けれどこういう時間の中では、少なくとも半分くらいの確率で、侑子の希望通りにユウキの身体は動くのだった。
上に乗った侑子の身体を、ユウキの腕が包み込んだ。滑らかな背中の感触を楽しんだ両手は、二手に分かれて深い愛撫を開始する。
鼓動は早くなり、時折甘く疼きながら、侑子の口から湿った吐息を誘い出した。
「境目、分からなくしようか」
侑子の頭を引き寄せて、ユウキは彼女の唇を、自分の唇にそっと重ねた。口吻は少しずつ深くなり、その音に呼応するかのように、ユウキの指が差し込まれた下半身から水音が聞こえてくる。
「……とけそう」
荒い呼吸の合間から、ようやく言葉となって連なった、侑子の声。
ユウキは笑った。
しかし、余裕がないのは彼も同じだった。愛しい恋人の扇情的な姿を、見せつけられているのだ。これでもよく耐えていると思いたい。本能のままに蹂躙したい色欲は、いつだって燻っている。
「まだだよ。まだ、とけてない。これからでしょ?――――ほら」
「あっ」
手で支えながら、彼女を導いた。
下から貫かれた衝撃で、侑子はまともな声が上がらない。薄明かりの中で、天井を仰いだ白い喉元が、ぼんやりと浮かび上がっていた。
「このまま俺の上で、踊ってみせてよ」
挑発するユウキの声は、低く、少しだけ息が乱れている。
ユウキが発する低音には、特別強いセックスアピールを感じさせた。
背が痺れるような興奮を覚えながら、侑子は腰を支えるユウキの手に、自分の手を重ねた。
もっと体温を感じたい。
もっと乱れた顔を見たい。
もっと言葉を奪いたい。
こんなに好戦的な自分がいたことを、侑子は知らなかった。
「もう……いいよ……っ」
余裕のない顔が嬉しい。
侑子は無意識に微笑んでいた。
ユウキは上体を起こすと、深い呼吸を一往復させる。その後すぐに、侑子をベッドの上に仰向けに押し倒し、再び深く入り込んだ。
「激しくされたい? それとも、抱き合ったまま、ゆっくりがいい?」
弱く律動を加えながら、ユウキは囁き声で問う。
言葉を吐き出しながら、今にも千切れそうな理性の糸を、辛うじて繋ぎ止めていた。
しかしそんな努力も、侑子の短い返答の後には、呆気なく泡と消えることとなるのだ。
「どっちも」
「……欲張り」
低く呟いたその言葉の後に、二人が意味のある声を出すことは、しばらくなかった。
吐息、喘ぎ、小さな悲鳴と、名と愛を呟こうとして叶わなかった、音の断片ばかり。
人間の精神の正体とは、何だろう。
脳は、神経細胞のネットワークで構築された物質だ。神経突起の上を電気刺激が飛び交い、その結果生まれるのが、感覚と感情である。
「あぁ――――きもちいいっ」
口から飛び出した甘い叫びも、その言葉に反応して強まった強張りも、二人分の神経活動が生み出した結果だった。
極限へと昂る感情の中で、布のほつれが広がるように、自我が
――分からなくなる。もっと、もっと……
自分の名を呼ぶユウキの声と、彼の名を呼ぶ自分の声は、空気中の波となって混ざり合う。
お互いの身体に回された腕と、密着し摩擦し合う肌から伝わる熱と汗は、もはやどちらのものか、判別できない。
身体の最も深層に近い場所同士が、繋がっている――そこは溶鉱炉のように熱く、ドロドロと溶けている。
「愛してる。愛してるよ……」
白濁して揺れる意識の中で、この世で最も憧れ、愛している音が聞こえた。
――境界が消えたら、この声は誰のものになるのだろう
自分の中の小さな宇宙に、閉じ込めてしまえればいいのに。
そう思った。