47.夢現

文字数 2,183文字

 一番最後のコードを鳴らした時、侑子はその瞬間がスローモーションになったような錯覚を覚えた。

自分の息を吸い込む音が脳を震わせ、唇の上を空気が流れる感触を生々しく感じる。

 そして残響も全てどこかへと消えてしまった次の瞬間、僅かな間も与えずに手を大きく打ち鳴らす音を耳がとらえたのだった。

「おめでとう! 躓かずに全部弾けたね」

 一番先に拍手をしたのはユウキで、労いの言葉をかけたのはアミだった。

侑子に数ヶ月に渡ってギターを教えてくれていたのが、この二人である。

 侑子はこの日、初めての弾き語りを成功させたのだった。

「変じゃなかった? 音程ズレたりしてなかった?」

「大丈夫。ばっちりだったから」

 嬉しそうなユウキの言葉に、じわじわと喜びと達成感が沸き起こってくる。

 侑子がたった今演奏した曲は、初心者の侑子のためにユウキとアミが協力して作ったものだった。

 歌詞は馴染みのあるマザーグース、使用するギターコードは全て侑子が抑えやすいものだけを使用している。

 それでも最後まで失敗せずに歌い切れるようになるまで、数ヶ月を要した。

歌に集中すれば弦を抑え忘れたりリズムを取り逃がすし、演奏に気を取られていると声がズレてしまう。

弾き語りとは難しいものなのだと思い知った。
しかしその一方で、意識せずともギターを弾くことが出来る爽快感と達成感の虜にもなっていた。

「もっと歌えるようになりたい! ギターも、もっと上手になりたいな」

「ここまで出来るようになったんだ。きっとどんどん上達するよ」

 そう言って侑子に笑いかけるユウキの透証から、呼び出し音が鳴り響いた。

リリーの声が聞こえてくる。

「もしもし? ツムグくんの準備、できたわ。もうすぐエイマンもこっちに着くみたい。どうしようか? 私達がそっちに迎えに行く?」

 その言葉にアミがちらりと部屋の掛け時計を確認した。

まだ正午まで数時間あった。当初予定していた出発時刻よりは大分余裕がある。

 今日は七月二十日。

 侑子達が十人の来訪者たちの墓参りに行く日だった。

 侑子はギターをおろして、服の皺を軽く伸ばした。懐かしい布の感触が手のひらに伝わってくる。

 今彼女が身につけているのは、セーラー服だった。

白地に紺襟、赤黒いリボンのついた夏の制服。それは一年前に侑子が着ていた物だ。
ユウキにこの屋敷に連れて来てもらったあの日に脱いでから、一度も再び袖を通すことなくクローゼットにしまったままになっていた。

 一年ぶりに身に着けたその制服のスカート丈が、記憶よりもほんの少しだけ短くなったように感じて、侑子は時の経過を意識したのだった。

「俺たちがそっちに行くよ。まだ時間もあるだろ。ツムグくんと待ってて」

 ユウキが透証の向こうへ返事を返し、リリーの声が聞こえて通話はそれで終わった。

 今リリーの家に紡久が一足先に出向いているのだ。彼も侑子同様、こちらの世界に来た時に身に着けていた学生服を着ることを選んだのだった。
彼の制服はリリーの家で預かっていた。

「今日は散歩してる時間がないかもしれないだろ。結構長距離移動らしいし」

 ユウキが侑子に告げた。

リリーの家までの道のりを、今日の散歩コースに設定したのだろう。

嬉しそうに頷く侑子に笑って、アミに向かって付け加える。

「アミはどうする? 歩くの面倒だったら自転車使って先に行く?」

「そうだな。そうさせてもらうよ」

 リリーさんの家まで結構な距離だろうと肩を竦めたアミは、先に出てるよと部屋を後にした。

彼も今日の墓参りに同行するのだ。護符の扱いが初めてとなるかもしれない侑子と紡久にとっては、心強い存在である。

「その服にその髪型だと、本当にあの時のユーコちゃんだね。でも……」

 部屋を出ようと後方の侑子をふと振り返ったユウキが、ぽそりと呟いた。

 一年前の侑子よりも、髪が伸びてお下げの穂先は肩よりも大分下になっていたし、身長も確かに伸びた。

「でも? どこか変?」

 やっぱりスカートが短くなっているのが変なのだろうか。

 気になった侑子が確認しようと下を向こうとした時だった。

侑子の左手が、優しく掬い取られるようにユウキの手に取られた。

ブレスレットの硝子の鱗が揺れ、自然と侑子の目線は前の青年の顔に向く。

「――顔つきが変わった。とても良い顔になったよ」

 くしゃりとした笑顔のユウキは、普段の彼よりも少しだけ幼くなる。

この一年の間に、侑子が知ったことの一つだ。侑子はこの表情がとても好きだ。

 自分の顔つきが変わったのかどうか、侑子自身にはよく分からない。けれど一年前の自分と明らかに変化した心境には心当たりが沢山あった。

――歌が歌えるようになった。大勢の前で歌って、しかも楽しいと思えるようになった。好きなことを好きと言うことが、ちっとも怖くなくなった

 なぜ一年前の自分はあんなに臆していたのか。

自分自身が一番理解しているはずなのに、振り返ってみると何故あんなに単純な仕掛けの檻から出られずにいたのか滑稽にすら思える。

これが成長という言葉が言い表すことなのだろうか。

「ユウキちゃんがいたからだよ」

 ブレスレットの鱗の揺れを感じながら、侑子は緑の瞳を見つめた。

「あなたが夢の半魚人だったから、ギターを弾きながら歌えるまでになったんだよ」

 瞳と瞳を見交わした二人は、幾日かぶりにあの夢の光景を目の前に見たような気がしたのだった。
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