58.帰郷

文字数 1,114文字

 静かな昼下がりだった。

 数日前の震災の影響は、この小さな漁村にまで及ぶことはなかったものの、人々の心を乱すのには十分だった。
 全国的にしばらくぶりの、大きな揺れだった。

 数年前に突然ヒノクニで発生するようになった天災の数々。海沿いに住む人々にとって、津波という現象がどれだけ警戒せねばならないものか、嫌というほど記憶に刻みつけられていた。
ちょっとした揺れや地の鳴る音に皆敏感になり、真っ先に境内に駆け込んでくるようになった。
この神社は、高台に位置していたからだ。

 オリトは拭き清めた床から立ち上がり、静かに深呼吸した。
潮の香りが微風に乗ってくる。
今日は波が穏やかだった。

先程、最後の一人が帰宅したばかりだった。余震や津波を警戒して避難してくる人々が、皆で身を寄せながら数日間を社屋で過ごしていたのだった。

――榊の水を変えなければ

 いつもの日課も、イレギュラーな数日間が終わった途端に忘れがちになる。
昔はこんなことはなかったはずだが、加齢のせいだろうか。

無意識に溜息を付きながら、拝殿から外へ出る。
 そこに、鳥居の外からオリトに声をかける者がいた。

「宮司さん」

 一瞬空耳と思ったのは、その声に聞き覚えがあったからだった。しかし村民のものではないはずだ。
 オリトは声の人物がすぐに頭に思い浮かんだが、俄には信じられなかった。

 だから、咄嗟にかける声が出なかった。

「……オリトくん?」

 自分の顔を見つめながら、自信なさげに名前を呼ばれた。
此方を見ている美しい瞳に、オリトは今度こそ自分の確信を受け入れるしかなかった。

「ミネコさん……」

 この場所で彼女を迎え入れる瞬間を、どれだけ待っていたことだろう。父と共に。
父がいなくなってしまってから、もう随分経ってしまった。
待ち続けていたはずなのに、迎えるための言葉が出なかった。待つ行為に慣れてしまったのか、心のどこかで諦めてしまっていたのか、分からない。

「ずっと帰ってこれなくて、ごめんなさい」

 履き込まれた登山靴が、鳥居を超えた。

境内に足を踏み入れたミネコの身体が、光りだす。白い肌の内側から発光するように。
 
 オリトは目を瞠ったが、ミネコはその現象に驚きはないようだった。困ったような顔を一瞬だけ浮かべて、オリトを伺うように視線を送った。

「鍵をお返ししなければと、思っていました……相談したいのです。オリトくん、本殿に私とこの方達を、入れて頂けますか」

 その言葉に改めてミネコの後方に目をやると、彼女と同じ様な登山服姿の男女の姿が目に入った。二人共黒髪で、宮司に向かって深く頭を下げていた。

「ご案内します。こちらへ」

 オリトは自分の声が思ったほど震えていないことを、意外に感じていた。
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