41.世界ⅱ欠けた神器

文字数 872文字

――まずい

 御簾に下がる房が、ゆらゆらと揺れていた。

 既に身体に感じる揺れは止まっているはずだが、揺れる房を見つめていると、今だに平衡感覚がおかしいような気分になる。

――まずい、まずい

 マヒトはその場にしゃがみ込んだ。

 昨夜からずっと雨が降り続いていた。

ただの雨ではない。

 マヒトはこのところ続く地震の他に、災害と結びつく事象が、高確率でこの国に発生することを予感していた。

 この場所から見える南庭は、すっかり大きな池のようになっている。元々池として整形していた場所は、既に氾濫して水の底である。

――どうしたらいい。よりによってこんな時に。いや、こんな時だからなのか?

 一人青くなる皇太子の前に、膝をついた人物がいた。

 この場所に似つかわしくない軽装のその男は、髪から水滴を滴らせていた。抑えきれない荒い息遣いから、走り込んできたことが伺える。

「マヒト様。お急ぎ下さい。お父上――お上が」

「タカオミ。どうしたらいいのだ。私は……」

 濡れて額にへばりつく花色の髪の下、菫色の瞳が真っ直ぐにマヒトをとらえている。

 こんなに険しい表情を浮かべたこの男を、マヒトは見たことがなかった。

 父の有能な近習であるこの男は、少し前から自分の元によく姿を見せるようになっていた。それが意味することを、マヒトもよく理解していたはずだ。しかし、いざその時が訪れているのだと知ると、どうにも受け入れがたい。

「神器は一つ欠けたままだというのに。こんな状態で――」

「やるしかありません」

 マヒトの言葉の続きを打ち消したタカオミの声は、震えないように必死で制御されたものだ。彼にしてはやけに低かった。

「進むしかないのです。止まることも、下がることもなりません。あなたが進まなければ、確実にこの国の歩みは止まる」

 雨音が強くなった。

 遠くに雷鳴が響く。

 外を一瞥したマヒトは、次に目の前の菫色の瞳に稲光が走るのを見た。

「参りましょう」

 頷いた皇太子は、立ち上がる。
 その場所を離れる直前、先を進み始めたタカオミが膝をついていた床を振り返った。

 小さな丸い水たまりができていた。
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