38.無限
文字数 2,627文字
髪に何かが触れて、頭皮に小さな刺激を伝えた。侑子は瞼を上げる。
薄い微睡みの膜を破るのには、少しだけ気力が必要だった。
「疲れちゃった?」
ベッドに腰を下ろした人の、緑の瞳が見下ろしている。
褐色の指が、侑子の黒髪を一束、掬い取っていた。
「色々あったもんね、今日」
指の中で遊ぶように黒髪を梳かすと、手はそのまま、侑子の柔らかな頬を撫でる。頬の上を何往復かした後、今度は首筋へと移動していった。
「本当にね」
くすぐったさのおかげで、ようやく意識がはっきり覚醒してきて、侑子は起き上がった。
ユウキの隣に並んで座ると、掛け時計が目に入る。少し横になるだけのつもりが、短針は想定よりも大きく移動していた。
今日は本当に色々なことがあった。
変わり果てた商店街に衝撃を受け、新生変身館でプロポーズされ、六年ぶりのユウキとのステージ歌唱で涙腺が崩壊した。
自分の魔法の成長が発見され、検証の為に『動く無機物』の数が格段に増えた――ぬいぐるみを始め、手足の動く人形や動物型のものであれば、同様の魔法がかかることが判明したのだ。
そしてつい数時間前に、侑子はライブハウスのステージの上――観客で一杯になったホールを見渡せる場所で、ユウキと共に歌ったのだった。
「楽しかったなぁ。あんなに歌って、踊って、ステージの上で笑ったの、すごく久しぶりだった」
当初は客席で楽しむつもりだった侑子を、ステージ上に引っ張り上げたのはユウキだ。
困惑する侑子と観客たちを大いに煽り、あっという間に熱狂と音の渦の中へと、引きずり込んでしまった。
「アミも、ショウジもミユキも、レイさんも。皆楽しんでたよ」
「私、余計じゃなかった?」
「そう感じたの?」
頷くのを躊躇いそうになって、視線を彷徨わせた。
そんな侑子を見て、ユウキが笑う。
「素直に自信持てばいいのに。今夜あんなに盛り上がっていたのは、間違いなく君が一緒に歌ったからだ」
「皆びっくりしただけじゃ」
「違うよ」
動きを封じるように、ユウキの人差し指が侑子の唇に触れた。
「俺と君の相性が、ぴったりだからだよ。やっぱりユーコちゃんは、俺にとって人生のキーパーソンだった。こんなに特別な存在が、他にいる?」
前髪が揺れて、緑の瞳を少しだけ隠した。
灰色の隙間から見える、穏やかなその色は、揺るがずに侑子の瞳を捕らえている。
「これからも、一緒に歌ってくれるんだよね?」
この言葉が、単純に文字通りの意味ではないことは、侑子にも分かる。
唇から人差し指の枷が外され、声は自由になっていた。
「ユウキちゃんと一緒に歌っていたい。ずっと」
柔らかく抱きすくめられる腕の中、直ぐ側で愛しい声が聞けることの、なんて幸福なことか。
「指輪の仕上がり、楽しみだね」
「明日は家具を探しに行こう。色んな道を通って、散策しながら。沢山歩こう」
「たまにはユーコちゃん単独で、ステージに立ってよ。客席から君の歌ってる姿を、見てみたい」
「きっとすごく綺麗なんだろうな。何度でも恋に落ちる自信がある」
「ああ、でも。君に男のファンがつくのは、嫌だなぁ」
一つ一つの言葉に、どう返事を返したのだろう。
いつの間にか再びベッドに倒れていて、至近距離から見つめるユウキの顔があった。
二つの腕とその長躯で、侑子を閉じ込めるようにして、懇願するような声を彼は出した。
「どんなにファンから好きだと言われても、絶対に靡かないでね。どんなに君の声が素敵だと褒められても……一番愛しているのは、この俺だよ」
「ファン? まさか」
「出来るよ、絶対。ユーコちゃんの歌は良い。それにこんなに、綺麗なんだから」
「買いかぶり過ぎ」
甘い言葉を連発する口を、今度は侑子の手が遮ろうとした。しかしすぐにその手は、長い指に絡め取られ、シーツの上に縫い留められられてしまう。
「俺が嫉妬しないとでも、思ってる?」
笑みの消えたユウキの表情は、本来の彼の顔は少しも甘くなく、むしろ凛とした印象を与えるものであることをうかがわせた。
「ノモトくんは、君の身体のどこに跡をつけたの?」
息を飲む侑子が返答できないことも、想定済みのようだった。
「……教えてくれたヤチヨちゃんを、責めちゃダメだよ。ユーコちゃんが戻ってきてからの今までを、一番近くで見てきた彼女に、根掘り葉掘りしつこく訊いたんだ。どんな話を君としたのか、君はどんな様子だったか」
握る手に、力が込められた。
「ユーコちゃんの気持ちは、微塵も疑ってないよ。そんな疑問、俺たちの間には必要ない。けど、別なんだ。他の誰かが君の肌を好きに触ったり、普段は聞かせない声を啼かせたことを、悔しく思う感情は抑えられない」
言い終えたユウキは、唇を閉ざさず、侑子の白い首筋に食らいついた。
ピリリとした甘い痛みが、身体の末端まで駆け抜けていく。
小さく跳ねた身体に、重石を置くようにユウキの身体が重なった。
「可愛い声。そんな声聞かせたら、誰だってその気になる」
褐色の指が口に差し込まれ、侑子の声はくぐもった。口内を蹂躙する指は左手のもので、右手は寝間着のボタンを外しにかかっていた。はだけて露わになった鎖骨の形を確かめるように、ユウキの唇がなぞっていった。
「――ここまでで、我慢する」
ふぅ、と息をついて、ユウキは顔を上げる。
僅かに身体を上げて、侑子との間に空間を設けると、たった今唇を押し付けていた白い肌を眺めた。
首筋から鎖骨にかけて、数枚の赤い花弁が散っている。
その痣は本当に花を散らしたように見えて、純粋に「美しい」という形容詞が、ユウキの中に浮かんだ。
愛おしくてたまらない人の肌の上に、抑えきれない自分の劣情が刻みつけた跡――生々しい傷跡のはずなのに、花と見紛える程美しい。
ユウキは満足した。
心が満たされる。
彼女の身体の、もっと先に触れたいという欲望とは別の、精神の深層部の話だ。
「もっとしたかった?」
「えっ?」
からかうつもりの言葉に、まんまとひっかかる侑子が愛しい。
「引っ越したら、沢山しよう。声だって我慢しなくていいよ。そのために、防音重視したんだから」
みるみる顔を真っ赤に染め、終いにはうつ伏せて枕に顔を埋めてしまう。
「防音は、歌うためでしょう?」
「目的が何だって、いいじゃないか。どちらだって俺達には必要なんだから」
囁いて、うなじに口づけた。
「ほら。きりがない」
唇を探し当てて、塞いでしまう。
きりがない。その通りだ。
愛を求めて、与えたいと湧き出す想いに、終わりはないのだった。
薄い微睡みの膜を破るのには、少しだけ気力が必要だった。
「疲れちゃった?」
ベッドに腰を下ろした人の、緑の瞳が見下ろしている。
褐色の指が、侑子の黒髪を一束、掬い取っていた。
「色々あったもんね、今日」
指の中で遊ぶように黒髪を梳かすと、手はそのまま、侑子の柔らかな頬を撫でる。頬の上を何往復かした後、今度は首筋へと移動していった。
「本当にね」
くすぐったさのおかげで、ようやく意識がはっきり覚醒してきて、侑子は起き上がった。
ユウキの隣に並んで座ると、掛け時計が目に入る。少し横になるだけのつもりが、短針は想定よりも大きく移動していた。
今日は本当に色々なことがあった。
変わり果てた商店街に衝撃を受け、新生変身館でプロポーズされ、六年ぶりのユウキとのステージ歌唱で涙腺が崩壊した。
自分の魔法の成長が発見され、検証の為に『動く無機物』の数が格段に増えた――ぬいぐるみを始め、手足の動く人形や動物型のものであれば、同様の魔法がかかることが判明したのだ。
そしてつい数時間前に、侑子はライブハウスのステージの上――観客で一杯になったホールを見渡せる場所で、ユウキと共に歌ったのだった。
「楽しかったなぁ。あんなに歌って、踊って、ステージの上で笑ったの、すごく久しぶりだった」
当初は客席で楽しむつもりだった侑子を、ステージ上に引っ張り上げたのはユウキだ。
困惑する侑子と観客たちを大いに煽り、あっという間に熱狂と音の渦の中へと、引きずり込んでしまった。
「アミも、ショウジもミユキも、レイさんも。皆楽しんでたよ」
「私、余計じゃなかった?」
「そう感じたの?」
頷くのを躊躇いそうになって、視線を彷徨わせた。
そんな侑子を見て、ユウキが笑う。
「素直に自信持てばいいのに。今夜あんなに盛り上がっていたのは、間違いなく君が一緒に歌ったからだ」
「皆びっくりしただけじゃ」
「違うよ」
動きを封じるように、ユウキの人差し指が侑子の唇に触れた。
「俺と君の相性が、ぴったりだからだよ。やっぱりユーコちゃんは、俺にとって人生のキーパーソンだった。こんなに特別な存在が、他にいる?」
前髪が揺れて、緑の瞳を少しだけ隠した。
灰色の隙間から見える、穏やかなその色は、揺るがずに侑子の瞳を捕らえている。
「これからも、一緒に歌ってくれるんだよね?」
この言葉が、単純に文字通りの意味ではないことは、侑子にも分かる。
唇から人差し指の枷が外され、声は自由になっていた。
「ユウキちゃんと一緒に歌っていたい。ずっと」
柔らかく抱きすくめられる腕の中、直ぐ側で愛しい声が聞けることの、なんて幸福なことか。
「指輪の仕上がり、楽しみだね」
「明日は家具を探しに行こう。色んな道を通って、散策しながら。沢山歩こう」
「たまにはユーコちゃん単独で、ステージに立ってよ。客席から君の歌ってる姿を、見てみたい」
「きっとすごく綺麗なんだろうな。何度でも恋に落ちる自信がある」
「ああ、でも。君に男のファンがつくのは、嫌だなぁ」
一つ一つの言葉に、どう返事を返したのだろう。
いつの間にか再びベッドに倒れていて、至近距離から見つめるユウキの顔があった。
二つの腕とその長躯で、侑子を閉じ込めるようにして、懇願するような声を彼は出した。
「どんなにファンから好きだと言われても、絶対に靡かないでね。どんなに君の声が素敵だと褒められても……一番愛しているのは、この俺だよ」
「ファン? まさか」
「出来るよ、絶対。ユーコちゃんの歌は良い。それにこんなに、綺麗なんだから」
「買いかぶり過ぎ」
甘い言葉を連発する口を、今度は侑子の手が遮ろうとした。しかしすぐにその手は、長い指に絡め取られ、シーツの上に縫い留められられてしまう。
「俺が嫉妬しないとでも、思ってる?」
笑みの消えたユウキの表情は、本来の彼の顔は少しも甘くなく、むしろ凛とした印象を与えるものであることをうかがわせた。
「ノモトくんは、君の身体のどこに跡をつけたの?」
息を飲む侑子が返答できないことも、想定済みのようだった。
「……教えてくれたヤチヨちゃんを、責めちゃダメだよ。ユーコちゃんが戻ってきてからの今までを、一番近くで見てきた彼女に、根掘り葉掘りしつこく訊いたんだ。どんな話を君としたのか、君はどんな様子だったか」
握る手に、力が込められた。
「ユーコちゃんの気持ちは、微塵も疑ってないよ。そんな疑問、俺たちの間には必要ない。けど、別なんだ。他の誰かが君の肌を好きに触ったり、普段は聞かせない声を啼かせたことを、悔しく思う感情は抑えられない」
言い終えたユウキは、唇を閉ざさず、侑子の白い首筋に食らいついた。
ピリリとした甘い痛みが、身体の末端まで駆け抜けていく。
小さく跳ねた身体に、重石を置くようにユウキの身体が重なった。
「可愛い声。そんな声聞かせたら、誰だってその気になる」
褐色の指が口に差し込まれ、侑子の声はくぐもった。口内を蹂躙する指は左手のもので、右手は寝間着のボタンを外しにかかっていた。はだけて露わになった鎖骨の形を確かめるように、ユウキの唇がなぞっていった。
「――ここまでで、我慢する」
ふぅ、と息をついて、ユウキは顔を上げる。
僅かに身体を上げて、侑子との間に空間を設けると、たった今唇を押し付けていた白い肌を眺めた。
首筋から鎖骨にかけて、数枚の赤い花弁が散っている。
その痣は本当に花を散らしたように見えて、純粋に「美しい」という形容詞が、ユウキの中に浮かんだ。
愛おしくてたまらない人の肌の上に、抑えきれない自分の劣情が刻みつけた跡――生々しい傷跡のはずなのに、花と見紛える程美しい。
ユウキは満足した。
心が満たされる。
彼女の身体の、もっと先に触れたいという欲望とは別の、精神の深層部の話だ。
「もっとしたかった?」
「えっ?」
からかうつもりの言葉に、まんまとひっかかる侑子が愛しい。
「引っ越したら、沢山しよう。声だって我慢しなくていいよ。そのために、防音重視したんだから」
みるみる顔を真っ赤に染め、終いにはうつ伏せて枕に顔を埋めてしまう。
「防音は、歌うためでしょう?」
「目的が何だって、いいじゃないか。どちらだって俺達には必要なんだから」
囁いて、うなじに口づけた。
「ほら。きりがない」
唇を探し当てて、塞いでしまう。
きりがない。その通りだ。
愛を求めて、与えたいと湧き出す想いに、終わりはないのだった。