79.方舟と観察者
文字数 2,252文字
「兵器が完成したら、暫くの間シェルターから出ずに生活します」
身体が動かいないまま、侑子はブンノウの言葉を聞いていた。口は動く。喋ることは出来るようだ。
「シェルター?」
オウム返しした侑子に、ブンノウは笑顔のまま頷く。
「この建物のことですよ」
彼の口調は軽かった。
「私達と透明な魔力を封じ込めた魔石、しばらく分の食糧と水、いくつかの実験器具と、そしてこの世界の生き物の素を持って」
そう話すブンノウの声は淀みなく、人間離れして侑子の耳に響いた。
そんな彼の横で、シグラはただ表情を殺して宙を見つめている。
「生き物の素って、何?」
乾いた声が出た。
侑子は気づいていた。
自分の身体が自由にならないのは、おそらく魔法によって動きが封じられているから。しかし同時に、自分の中から生まれる恐怖から動けなくなっているだけなのではないかと、疑いだしていた。
「植物であれば種。動物であれば受精卵。粘菌であればある程度の個体。私たちはこれまで、あらゆる種類の生物の素を採取してきました。流石にこの地球上全てというわけにはいきませんが、結構な種を網羅しています」
ブンノウの声が生き生きとしてくるのに反比例して、侑子の手足から力が抜けていく。
「ユーコ。私はね、知りたいのです」
白衣の下で組んだ足は長く、夢の中の半魚人を思い出した。
「何もかも消えた世界で、何が見えるのか。理はどうなるのか。ねえ、ユーコ」
無精髭が生えた顎に添えた手は白く、皺が刻まれている。浮かび上がった血管は青く、絵の具で皮膚の上から塗ったように鮮明に色が見えた。
「あなたのいた世界には、面白い言い伝えがあったでしょう。大洪水で滅びた世界の中で、方舟 に乗って生き延びた人間の話が」
「ノアの方舟……?」
旧約聖書の話だ。
この世界に旧約聖書はなかったはずだ。
侑子の呟きに、ブンノウはやや興奮した様子だった。
「そう、それです。昔研究所にいた来訪者が教えてくれたのですよ。並行世界の話は、どれも興味深いものばかりだ。……私はこの神秘的な話を聞いて、シェルターを作ろうと思った。このやり方なら、私がずっと知りたくてたまらなかった真実に、近づけると思ったのです」
上半身を侑子の方へ傾けたブンノウの目は見開かれ、一回り大きく見えた。
「これまで私は、数多くの真実、仕組み、成り立ち、この世のありとあらゆる事象を理解してきました。けれど、いくら追求しても分からないことはあります。その最たるものが、死。誰に対しても平等なはずなのに、どうしても本質が分からないこと……死とはなにか? 死んだとき、自分の死を経験できないのは何故か。他者の死は経験できるけど、自分自身の死は経験できない。それ故死とは必然的に残された者たちのものとなる。ならば、皆一斉に死を迎えたのならば、他者の死と自分の死が全くの同時であったならば――――」
新しい発見をした小さな子供のように、無邪気な笑みを侑子は見た。
「その時。誰もいなくなった世界は、どうなるのでしょう?」
ブンノウの声が、遠くに聞こえた。
――身体に力が入らない。動けない
金縛りと似ていた。
意識だけは明朗で、身体は自由にならない。恐怖を感じる感覚は生きていて、後は気絶している。
ブンノウの叫ぶように強い言葉が、耳の内を刺してくる。
「その答えを知りたかった。解き明かしたかった。この世で最も知りたい答えが、それだった」
「観察したい。観察したい。観察したい」
「私には、悲しむ、悼むという感情は分からない」
「死の観察者として、私以上の適任がいるでしょうか?」
「そして私には、世界をそのように導くための手段を造る能力があった」
「更地になった世界に、もう一度生物の種を蒔く時」
ブンノウの手が、侑子の顎を強く掴んだ。顔に痛みが走り、痛覚は生きていたと気づく。
「色のないまっさらな光を持つあなた達が、アダムとイヴに相応 しい。あなたとツムグは、この世界の外側の人間。この世界の摂理から最初から外れている。この国に最後にやってきた来訪者が一対の男女だったこと、そのうちの一人が命を吹き込む才を持っていたこと――――全てが私を観察者として動かしているのですよ」
ブンノウの手に、力が込められる。
「シェルターの外側から生物が消えた後。ドアを開けて見えた世界を観察したら、私も死にましょう。有色の魔力を持った最後の一人が消えたあと、新しい世界に降り立つのは、透明な魔力の男女。この世の理は、その瞬間に変わるかもしれない。それを観察できないのは残念ですが、仕方ありません。そこは諦めます」
口の中に布が押し込まれ、後頭部を強く圧迫された。
マスクではない、本物の猿轡だった。
シグラが侑子の脇の下に腕を入れ、ずり落ちた身体を座り直させた。身体が動かない。
「首から上と両肘から先は、自由になるようにしましょう。二つの兵器に、魔法をかけてください。これが最後ですよ。もう待つことは出来ません」
硝子壁の向こう側――――今まで誰もいなかったその場所の外側のドアが無造作に開き、乱雑な衝撃音と共に、何かが倒れ込むように転がり入ってくるのが見えた。
人だ、と認識するのと同時に、侑子の目は大きく見開いた。
猿轡の奥で、声にならないくぐもった驚きの叫びを絞り出す。
「ユーコ。あなたはもう拒絶できない」
にっこり笑ったブンノウの顔に、初めて人らしい赤みが差したのを見た。
「才を使いなさい。彼の束の間の命と、引き換えです」
硝子壁に隔たれた床の上。
ユウキが横たわっていた。
身体が動かいないまま、侑子はブンノウの言葉を聞いていた。口は動く。喋ることは出来るようだ。
「シェルター?」
オウム返しした侑子に、ブンノウは笑顔のまま頷く。
「この建物のことですよ」
彼の口調は軽かった。
「私達と透明な魔力を封じ込めた魔石、しばらく分の食糧と水、いくつかの実験器具と、そしてこの世界の生き物の素を持って」
そう話すブンノウの声は淀みなく、人間離れして侑子の耳に響いた。
そんな彼の横で、シグラはただ表情を殺して宙を見つめている。
「生き物の素って、何?」
乾いた声が出た。
侑子は気づいていた。
自分の身体が自由にならないのは、おそらく魔法によって動きが封じられているから。しかし同時に、自分の中から生まれる恐怖から動けなくなっているだけなのではないかと、疑いだしていた。
「植物であれば種。動物であれば受精卵。粘菌であればある程度の個体。私たちはこれまで、あらゆる種類の生物の素を採取してきました。流石にこの地球上全てというわけにはいきませんが、結構な種を網羅しています」
ブンノウの声が生き生きとしてくるのに反比例して、侑子の手足から力が抜けていく。
「ユーコ。私はね、知りたいのです」
白衣の下で組んだ足は長く、夢の中の半魚人を思い出した。
「何もかも消えた世界で、何が見えるのか。理はどうなるのか。ねえ、ユーコ」
無精髭が生えた顎に添えた手は白く、皺が刻まれている。浮かび上がった血管は青く、絵の具で皮膚の上から塗ったように鮮明に色が見えた。
「あなたのいた世界には、面白い言い伝えがあったでしょう。大洪水で滅びた世界の中で、
「ノアの方舟……?」
旧約聖書の話だ。
この世界に旧約聖書はなかったはずだ。
侑子の呟きに、ブンノウはやや興奮した様子だった。
「そう、それです。昔研究所にいた来訪者が教えてくれたのですよ。並行世界の話は、どれも興味深いものばかりだ。……私はこの神秘的な話を聞いて、シェルターを作ろうと思った。このやり方なら、私がずっと知りたくてたまらなかった真実に、近づけると思ったのです」
上半身を侑子の方へ傾けたブンノウの目は見開かれ、一回り大きく見えた。
「これまで私は、数多くの真実、仕組み、成り立ち、この世のありとあらゆる事象を理解してきました。けれど、いくら追求しても分からないことはあります。その最たるものが、死。誰に対しても平等なはずなのに、どうしても本質が分からないこと……死とはなにか? 死んだとき、自分の死を経験できないのは何故か。他者の死は経験できるけど、自分自身の死は経験できない。それ故死とは必然的に残された者たちのものとなる。ならば、皆一斉に死を迎えたのならば、他者の死と自分の死が全くの同時であったならば――――」
新しい発見をした小さな子供のように、無邪気な笑みを侑子は見た。
「その時。誰もいなくなった世界は、どうなるのでしょう?」
ブンノウの声が、遠くに聞こえた。
――身体に力が入らない。動けない
金縛りと似ていた。
意識だけは明朗で、身体は自由にならない。恐怖を感じる感覚は生きていて、後は気絶している。
ブンノウの叫ぶように強い言葉が、耳の内を刺してくる。
「その答えを知りたかった。解き明かしたかった。この世で最も知りたい答えが、それだった」
「観察したい。観察したい。観察したい」
「私には、悲しむ、悼むという感情は分からない」
「死の観察者として、私以上の適任がいるでしょうか?」
「そして私には、世界をそのように導くための手段を造る能力があった」
「更地になった世界に、もう一度生物の種を蒔く時」
ブンノウの手が、侑子の顎を強く掴んだ。顔に痛みが走り、痛覚は生きていたと気づく。
「色のないまっさらな光を持つあなた達が、アダムとイヴに
ブンノウの手に、力が込められる。
「シェルターの外側から生物が消えた後。ドアを開けて見えた世界を観察したら、私も死にましょう。有色の魔力を持った最後の一人が消えたあと、新しい世界に降り立つのは、透明な魔力の男女。この世の理は、その瞬間に変わるかもしれない。それを観察できないのは残念ですが、仕方ありません。そこは諦めます」
口の中に布が押し込まれ、後頭部を強く圧迫された。
マスクではない、本物の猿轡だった。
シグラが侑子の脇の下に腕を入れ、ずり落ちた身体を座り直させた。身体が動かない。
「首から上と両肘から先は、自由になるようにしましょう。二つの兵器に、魔法をかけてください。これが最後ですよ。もう待つことは出来ません」
硝子壁の向こう側――――今まで誰もいなかったその場所の外側のドアが無造作に開き、乱雑な衝撃音と共に、何かが倒れ込むように転がり入ってくるのが見えた。
人だ、と認識するのと同時に、侑子の目は大きく見開いた。
猿轡の奥で、声にならないくぐもった驚きの叫びを絞り出す。
「ユーコ。あなたはもう拒絶できない」
にっこり笑ったブンノウの顔に、初めて人らしい赤みが差したのを見た。
「才を使いなさい。彼の束の間の命と、引き換えです」
硝子壁に隔たれた床の上。
ユウキが横たわっていた。