107.呼び声
文字数 1,553文字
海の香りが近くなるにつれて、侑子の確信は微動だにしなくなる。
理由は分からない。全て直感だった。
――聞こえる
空耳かもしれない。昨夜の夢の残響かもしれない。
海中で聞こえた彼の歌声は、とても美しかった。
――なぜブンノウの声で歌わないといけないんだろう
どうせだったら、ユウキの声で聞きたかった。夢の中と同じように。
――早く帰ってきて
階段を一階まで降り、薄暗い廊下を進む。すぐ目の前に、ブンノウの細い背中があった。
先頭を歩くその男の手が、外へ繋がるドアを開けた。
――帰ってきたら、ちゃんと聞かせて。今度は、あなた本来の歌声で
波が打ち寄せる音が、すぐ側で聞こえた。
***
ブンノウが待機場所にしたのは、小さな浜辺だった。
砂は黒っぽく湿っていて、ついさっきその場所に波が打ち寄せたのだと分かる。
侑子が波打ち際まで進むことを、ブンノウは止めなかった。
波が寄せて、侑子の足首を撫でては帰っていく。
ずずずずと、砂の中に足先が埋まる。全身が波に引っ張られるような感覚を覚えたが、侑子の身体は同じ場所にとどまったままだった。
寄せては引いて、引いては寄せて、波は無限に繰り返す。
「ユウキちゃん」
青く輝きながら彼らが落ちた場所にむかって、侑子は名前を呼んだ。
大きな呼び声ではなかったが、確信を得る。
――届いた
再び打ち寄せた波が、返事を運んできたように思えた。
「ここで待ってるよ」
――だから
「戻ってきて」
一際大きな波が打ち寄せる。
侑子の膝までを、一気に濡らした。
ワンピースを覆った硝子の鱗が濡れて、その煌めきをより一層強めた。
***
「気の毒なことです」
侑子の背中を眺めながら、ブンノウの顔は笑顔だ。
「健気ですね。本当に心から彼のことを、愛していたのでしょう」
彼の言葉に、シグラも紡久も返事をしなかった。シグラは呆けたようにただ水平線を見ていて、紡久は両手を握りしめたままじっとしていた。
「元の姿で帰ってくることはないのに。今頃はきっと、深い場所で完全に潰れている」
大きな波が打ち寄せて、侑子がよろけた。尻もちをついた彼女に、紡久は思わず駆け寄っていた。
「大丈夫?」
「今の波すごかったね」
あはは、と笑い声を立てる侑子は、普段通りの彼女だった。発狂したようには見えないし、捨て鉢になっているわけでもなさそうだった。そこが紡久には不可解だった。
侑子が立ち上がる前に次の波が来て、それも大きかったので、屈んでいた紡久までびしょ濡れになった。
可笑しそうに笑った侑子は、紡久に引っ張り上げられながら謝った。
「ごめんね、紡久くんまで濡れちゃった。後で私が乾かすよ」
「侑子ちゃんもなかなかだよ。髪まで濡れてる」
「でも気持ちいいね。今日が本当に海水浴だったら良かったのに」
確かに水温はそこまで冷たくなく、濡れた身体に太陽光が降り注ぐと、心地よくもあった。
「海にも、天膜ってあるのかな」
侑子の呟きに、紡久はしばし考えてから答えた。
「きっとあるんじゃないかな」
「海底にも?」
「あるはずじゃない? 地震に関係ありそうだし」
「じゃあきっと、ユウキちゃんは無事なはず。そうでしょ? ユウキちゃんの天膜も、剥がれていないはずだもん」
紡久は、はっとした。
「そうか。じゃあ、水圧とか関係ないのかな。息ができなくても……?」
「詳しくはわからないけれど」
「でも、だけど……本当に? 天膜ってそんなに何でもかんでも守ってくれるものなの?」
侑子は首を振った。
「分からない」
不安な方へと否定するのに、侑子の表情は曇らなかった。
「どんな成り行きで行き着くのかは分からないけれど、夢が正夢になるのだったら、ユウキちゃんは無事に帰ってくるんだよ」
当然のことのように、侑子が笑った。
そして自分を見つめる紡久に、海を見るように促したのだった。
理由は分からない。全て直感だった。
――聞こえる
空耳かもしれない。昨夜の夢の残響かもしれない。
海中で聞こえた彼の歌声は、とても美しかった。
――なぜブンノウの声で歌わないといけないんだろう
どうせだったら、ユウキの声で聞きたかった。夢の中と同じように。
――早く帰ってきて
階段を一階まで降り、薄暗い廊下を進む。すぐ目の前に、ブンノウの細い背中があった。
先頭を歩くその男の手が、外へ繋がるドアを開けた。
――帰ってきたら、ちゃんと聞かせて。今度は、あなた本来の歌声で
波が打ち寄せる音が、すぐ側で聞こえた。
***
ブンノウが待機場所にしたのは、小さな浜辺だった。
砂は黒っぽく湿っていて、ついさっきその場所に波が打ち寄せたのだと分かる。
侑子が波打ち際まで進むことを、ブンノウは止めなかった。
波が寄せて、侑子の足首を撫でては帰っていく。
ずずずずと、砂の中に足先が埋まる。全身が波に引っ張られるような感覚を覚えたが、侑子の身体は同じ場所にとどまったままだった。
寄せては引いて、引いては寄せて、波は無限に繰り返す。
「ユウキちゃん」
青く輝きながら彼らが落ちた場所にむかって、侑子は名前を呼んだ。
大きな呼び声ではなかったが、確信を得る。
――届いた
再び打ち寄せた波が、返事を運んできたように思えた。
「ここで待ってるよ」
――だから
「戻ってきて」
一際大きな波が打ち寄せる。
侑子の膝までを、一気に濡らした。
ワンピースを覆った硝子の鱗が濡れて、その煌めきをより一層強めた。
***
「気の毒なことです」
侑子の背中を眺めながら、ブンノウの顔は笑顔だ。
「健気ですね。本当に心から彼のことを、愛していたのでしょう」
彼の言葉に、シグラも紡久も返事をしなかった。シグラは呆けたようにただ水平線を見ていて、紡久は両手を握りしめたままじっとしていた。
「元の姿で帰ってくることはないのに。今頃はきっと、深い場所で完全に潰れている」
大きな波が打ち寄せて、侑子がよろけた。尻もちをついた彼女に、紡久は思わず駆け寄っていた。
「大丈夫?」
「今の波すごかったね」
あはは、と笑い声を立てる侑子は、普段通りの彼女だった。発狂したようには見えないし、捨て鉢になっているわけでもなさそうだった。そこが紡久には不可解だった。
侑子が立ち上がる前に次の波が来て、それも大きかったので、屈んでいた紡久までびしょ濡れになった。
可笑しそうに笑った侑子は、紡久に引っ張り上げられながら謝った。
「ごめんね、紡久くんまで濡れちゃった。後で私が乾かすよ」
「侑子ちゃんもなかなかだよ。髪まで濡れてる」
「でも気持ちいいね。今日が本当に海水浴だったら良かったのに」
確かに水温はそこまで冷たくなく、濡れた身体に太陽光が降り注ぐと、心地よくもあった。
「海にも、天膜ってあるのかな」
侑子の呟きに、紡久はしばし考えてから答えた。
「きっとあるんじゃないかな」
「海底にも?」
「あるはずじゃない? 地震に関係ありそうだし」
「じゃあきっと、ユウキちゃんは無事なはず。そうでしょ? ユウキちゃんの天膜も、剥がれていないはずだもん」
紡久は、はっとした。
「そうか。じゃあ、水圧とか関係ないのかな。息ができなくても……?」
「詳しくはわからないけれど」
「でも、だけど……本当に? 天膜ってそんなに何でもかんでも守ってくれるものなの?」
侑子は首を振った。
「分からない」
不安な方へと否定するのに、侑子の表情は曇らなかった。
「どんな成り行きで行き着くのかは分からないけれど、夢が正夢になるのだったら、ユウキちゃんは無事に帰ってくるんだよ」
当然のことのように、侑子が笑った。
そして自分を見つめる紡久に、海を見るように促したのだった。