15.痕

文字数 1,844文字

「これは、また。随分と狂愛的だな」

 下世話な含みを持ったその言葉の直後に、バシンという物騒な音が鳴った。
ヤヒコの「いてえ」という、非難めいた声が続く。

「お前が呼んだから、話を聞いてやってたんだろうが。変な痣があったっていうから」

 ヤチヨはタブレットに書いた文字と、空白に描いた絵を見返した。拙い絵は人の裸体を描いたもので、先程侑子の身体にあった痣の、大体の位置と数を示していた。

侑子が語った『キスマーク』というものが、彼女の説明通りのものなのか、確信が持てずにいたのだった。

あんなに見るからに痛そうなのに、口づけで恋人から付けてもらうものとは、本当なのだろうか。
侑子は自分に心配をかけまいと、あえてそんな嘘をついただけなのではないか。本当は何か怖い目に遭ったのではないか。
ヤチヨは気を揉んでいたのだった。

(まじまじ見すぎ。ヘンタイ)
「お前な。そんな下手な絵を見て、変な気起こるわけないだろ」

 非難の視線に反論したヤヒコのこの言葉に、ヤチヨはもう一撃だけ兄の背中に平手打ちを食らわせた。それでようやく、溜飲を下げることを決めたらしい。
一つ頷いて、改めてタブレットに文字を書く。

(怪我ではないの?)
「怪我じゃない。お前はまだ夫がいないからな――知らなくても仕方ないだろうよ。この痣は、キスマーク。恋人に愛された印みたいなもんだ。時間が経てば、薄くなって消えるよ」

 妹にこんな説明させるなんて、どんな嫌がらせだよと、ヤヒコは締めくくりにぼやいた。

 一方のヤチヨは、兄の説明に目を丸めていた。侑子と同じ説明をした。
ということは、侑子は真実を語っていたのだ。

(恋人?)

 妹の疑問に、ヤヒコはふと、テントの中に見える侑子の寝顔を見た。深く眠っているようだった。連日の山歩きで、疲れは相当溜まっていたはずだ。

「いたんだろう、あっちの世界に。気の毒にな。家族や恋人と別れて、ユウコはここにいる」

 言葉にすると、自分たちが侑子に強いている行為が、改めて理不尽に思えてくる。ヤヒコはハァと深く溜息をついた。

(ユウコの恋人は、王都にもいるでしょう?)
「歌歌いの男だったな」

 七年前の侑子の初めての来訪から今に至るまでの話は、ヤヒコも既に把握していた。
ユウキという男との奇妙な文通のこと、そして彼との関係についても、侑子は隠すこと無く語ったのだ。

「会えない期間が六年、後ろの二年は完全に繋がりが絶えていた。この先会える希望などゼロと考えるのが、自然だったろう」

 寝息すら聞こえない深い眠りに落ちた侑子の顔は、まるで蝋人形のようだった。心を失くした空洞を見ている気分になりながら、ヤヒコは妹に言い聞かせる。

「たとえその歌歌いのことを愛したままだったとしても、触れ合える恋人を求めるのは、不思議ではないさ。この先会える希望のない相手だけを一生想い続けろなんて、誰が言える? 部外者がどうこう口出しできることじゃない」

 眉をひそめる表情は、腑に落ちていないという訴えだろう。

ヤチヨは話せない代わりに、表情で多くの感情を伝えることに長けていた。そしてヤヒコはそんな妹の気持ちを読み取ることが、誰よりも得意だった。

「納得いかない?」

 その問いには首を横に振ったが、ヤチヨは難しい表情を浮かべたままだった。

「心の機微ってのは、理屈じゃ説明できないものだ。チヨ、目の前で侑子を見ていたほうが、俺のこんな説明聞いてるよりも、理解できると思うぞ。――ついて来いよ。ユウコとその歌歌いの顛末、俺たちで見届けてやろうぜ」
(ユウコを、王都へ送るの?)

 兄の言葉に新たな驚き顔を作って、ヤチヨは文字を綴った。

(次のメムの拠点へ、一緒に連れて行くのだと思ってた)
「ランは元々そのつもりだったみたいだけど。ユウコの話聞いたら、気が変わったみたいだな。王都の知り合いの元まで、送り届けてやるべきだろうって。そもそもユウコは、王都に戻りたがっていただろう?」

 ヤヒコの脳裏に、子供たちと輪を作って歌っていた侑子の姿が浮かんだ。顔いっぱいの笑顔は、無理して作ったものではなくて、広がる歌声まで楽しげに弾んでいた。

「来訪者が幸せであることが、最も効率の良い副産物の採取方法らしいぞ。……打算だらけで嫌になるけど、俺たちは乗っかるしかないよな。俺たちの先祖が作った、理の上に。それで一先ずユウコが笑うのかも知れないなら……乗っかってもいいだろう?」

 兄の顔に一片の哀しみを見つけて、ヤチヨは口をつぐんだ。――出てくる言葉はないのだが。
彼女はただ頷いた。
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