20.世界ⅱ管理人
文字数 1,320文字
「引っ越そうと思ってるの」
数ヶ月前に同じ調子で『部屋を移動するわ』と聞いた気がする。
すっかり手紙を待つための待機部屋と化した元主寝室で、リリーからそう告げられたユウキは顔を上げた。
「引っ越し? リリーが?」
「そう。エイマンと二人で、もっと小さな家に移ろうかって話をしてるの。変身館からも近い地区にね」
「そっか。じゃあさ、リリー。この家の……」
『手入れを引き受ける代わりに、引き続き出入りをさせて欲しい』とユウキは申し出ようとした。もちろん侑子との文通のためである。
しかしそんな彼の言葉を、予め予想していたのだろう。
リリーは微笑みながら人差し指を立て、ユウキの言葉を制止すると、押入れの方を向いて言った。
「ここに住んでくれないかしら。この家を無人にしたくないの」
改めてユウキに向き直ったリリーの顔はいつになく真剣で、慎重に言葉を選んでいるようだった。虹色の視線は僅かに泳ぐ。
「掃除とか、畑や庭の手入れはしなくていい。私がちゃんと見に来るようにする。ユウキは必要な部屋を勝手に使ってくれて構わない。ただ……」
『戸、扉。どこの部屋のでも構わない……とにかく頼む。建物を守ってくれ』
兄の言葉が脳裏に蘇った。
全く同じ言葉を繰り出そうとしたが、やめておいた。
自分の言葉で言い直す。
「私が以前使っていた部屋のドア。それから魔石ソケットが置いてある屋根裏。できれば他の場所も……壊れることがないように、守って欲しいの」
リリーの言葉に、ユウキの瞳が揺れる。
「あはは。これじゃ手入れしてって言ってるのと変わらないか。違うのよ。古い家でしょ? だから住んでいてくれる人がいるだけで、空き家にしとくよりずっと良いだろうってことで……」
笑いながら重ねられるリリーの説明を聞きながら、ユウキは一度だけ頷いた。
「分かってるよ。絶対に壊したらダメってこと。ユーコちゃんと手紙をやり取りすることが、できなくなるかもしれない。ユーコちゃんが戻ってくる可能性も、消えるかもしれない」
黒く長い前髪に緑の瞳が隠されると、まるで知らない人のようだった。リリーは彼がこの数ヶ月の間に随分と負の感情を溜め込んでいるのを、よく知っている。
「この家の管理人、俺の他に適任者がいる? 安心していいよ。しっかり守るから」
***
雪が積もったままの畑には、誰も足を踏み入れていなかった。
長靴を履いてきて正解だったわ、とリリーは一歩踏み入れてから思った。踝まで軽く埋まってしまう。
ザク、ザク、と小気味良い音が聞こえる。
畑の中程まで進んでから、ゆっくり振り返った。
生まれ育った我が家が見えた。
――無責任かしら
結婚を言い訳にしてこの家を出ようと決めたことに、後ろめたさを感じた。
一緒に住む場所にと、エイマンが一番に提案したのは、この家だ。しかしそんな彼の申し出に首を横に振って、別の場所で新居を探したいと、リリーは答えたのだ。
「待てなくて、ごめんなさい」
誰に対して謝ったのだろう。
不意に口をついて出た謝罪の言葉に、僅かに理不尽さを感じつつ、一方でやはり後ろめたさが刺さった。
「やっぱり待ち続けるのは無理みたい」
ギュッと足元で踏みしめられた雪が鳴る。
「早く帰ってきてよ」
数ヶ月前に同じ調子で『部屋を移動するわ』と聞いた気がする。
すっかり手紙を待つための待機部屋と化した元主寝室で、リリーからそう告げられたユウキは顔を上げた。
「引っ越し? リリーが?」
「そう。エイマンと二人で、もっと小さな家に移ろうかって話をしてるの。変身館からも近い地区にね」
「そっか。じゃあさ、リリー。この家の……」
『手入れを引き受ける代わりに、引き続き出入りをさせて欲しい』とユウキは申し出ようとした。もちろん侑子との文通のためである。
しかしそんな彼の言葉を、予め予想していたのだろう。
リリーは微笑みながら人差し指を立て、ユウキの言葉を制止すると、押入れの方を向いて言った。
「ここに住んでくれないかしら。この家を無人にしたくないの」
改めてユウキに向き直ったリリーの顔はいつになく真剣で、慎重に言葉を選んでいるようだった。虹色の視線は僅かに泳ぐ。
「掃除とか、畑や庭の手入れはしなくていい。私がちゃんと見に来るようにする。ユウキは必要な部屋を勝手に使ってくれて構わない。ただ……」
『戸、扉。どこの部屋のでも構わない……とにかく頼む。建物を守ってくれ』
兄の言葉が脳裏に蘇った。
全く同じ言葉を繰り出そうとしたが、やめておいた。
自分の言葉で言い直す。
「私が以前使っていた部屋のドア。それから魔石ソケットが置いてある屋根裏。できれば他の場所も……壊れることがないように、守って欲しいの」
リリーの言葉に、ユウキの瞳が揺れる。
「あはは。これじゃ手入れしてって言ってるのと変わらないか。違うのよ。古い家でしょ? だから住んでいてくれる人がいるだけで、空き家にしとくよりずっと良いだろうってことで……」
笑いながら重ねられるリリーの説明を聞きながら、ユウキは一度だけ頷いた。
「分かってるよ。絶対に壊したらダメってこと。ユーコちゃんと手紙をやり取りすることが、できなくなるかもしれない。ユーコちゃんが戻ってくる可能性も、消えるかもしれない」
黒く長い前髪に緑の瞳が隠されると、まるで知らない人のようだった。リリーは彼がこの数ヶ月の間に随分と負の感情を溜め込んでいるのを、よく知っている。
「この家の管理人、俺の他に適任者がいる? 安心していいよ。しっかり守るから」
***
雪が積もったままの畑には、誰も足を踏み入れていなかった。
長靴を履いてきて正解だったわ、とリリーは一歩踏み入れてから思った。踝まで軽く埋まってしまう。
ザク、ザク、と小気味良い音が聞こえる。
畑の中程まで進んでから、ゆっくり振り返った。
生まれ育った我が家が見えた。
――無責任かしら
結婚を言い訳にしてこの家を出ようと決めたことに、後ろめたさを感じた。
一緒に住む場所にと、エイマンが一番に提案したのは、この家だ。しかしそんな彼の申し出に首を横に振って、別の場所で新居を探したいと、リリーは答えたのだ。
「待てなくて、ごめんなさい」
誰に対して謝ったのだろう。
不意に口をついて出た謝罪の言葉に、僅かに理不尽さを感じつつ、一方でやはり後ろめたさが刺さった。
「やっぱり待ち続けるのは無理みたい」
ギュッと足元で踏みしめられた雪が鳴る。
「早く帰ってきてよ」