託されたこと③

文字数 2,658文字

――今年は侑子ちゃんもいるのね

 賑やかな年末年始になりそうな予感がした。

 侑子が来てから、ユウキはどこか曇った部分がなくなったし、ノマもよく笑うようになったように思う。
ジロウは変身館の客足が増えたんだとホクホク顔だが、その効果をもたらしたのは、きっと侑子だろう。

 明確に彼女目当ての客が増えたというわけではないが、侑子が共に歌うようになってから、噴水広場でのユウキの客が、ライブハウスにも流れてくるようになったのだ。
正式に変身館の専属歌歌いとなったユウキは、ステージに立つ時間も増えたので、今後更に集客率は上がっていくだろう。

 歩いているうちに体温も上がり、外気温にも慣れてくる。
リリーはフードを脱いで、やや歩調を緩めた。
 甘い香りが漂う店の並びに入り、何を差し入れにしようか、考え始めた時だった。

 喧騒の中から、引っかかる音を捉えた気がして、リリーは足を止めた。

 夕方の商店街は賑やかだ。
明日は休日なので、その前の晩ともなると、夜の街に繰り出す大人たちも多い。浮かれて既に羽目を外しそうな気配を孕んだ笑い声が、聞こえてくる。

 そんなざわついた声の中、リリーの耳は、思いもよらない人物が自分の名を呼ぶ音を拾った。

「サユリ」

 その名を呼ぶ者は、もうこの五年の間、エイマンしかいなかった。その彼すら、決まった場面でしか口にしない。

日常的にそう彼女を呼んできたのは、決まった人達だけ。

五年前までの“歳納”と“曙祝”を、共に過ごしてきた人々だけだった。

 たまたま同じ名前の別人を、誰かが呼んだだけだろうという思いつきも、その声の調子で、すぐに打ち消される。

「お兄ちゃん?」

 職業柄、音を聞き分けるのは得意だった。
その声を耳にしたのは、かなり久しぶりだったが、忘れることはない。

――家族なのだから

「なんで」

 振り返ったリリーは、変わり果てたその人物の容貌に、愕然とした。

 落ち窪んだ目は、ギラギラと光っていた。先程のリリーのように、外套のフードを目深にかぶっていた。

自分と同じ色の瞳と、同じ色の髪。

背格好も、特徴的な耳の形も、確かに兄だ。

しかし見れば見るほど、彼はこんな外見をしていただろうかと、首をかしげたくなる。
しかしそれ以上考える間もなく、その人物が間を詰めてくる。

 そして次の瞬間、リリーが口を開くより前に、彼女の顔の前で大きく右手を開くと、何かを唱えるように小さく唇を動かした。

 ブォンと、耳の側で大きな虫が羽ばたく、重たい音が響いた。リリーは商店街の明かりが、一段暗くなったのを感じた。

先程まであんなに賑やかだった通りの物音も、くぐもって聞こえる。

「お兄ちゃん?」

 眼の前の人物だけが、明確な色を持ってそこに立っていた。

 リリーは学生時代に授業で学んだことを思い出す。

――これは、結界の内側だ

 空間制御の魔法である。
かなり高度で、扱うことが難しい類の魔法のはずだ。兄はこんなものを使えただろうか。

「時間がない。手短に済ます」

 その言葉が終わる前に、リリーが左腕に身に着けていた透証に向かって、兄は手を翳す。再び何かを小声で詠唱した。

 普通魔法を使う時に呪文を唱えることはないのだが、兄の唇が動きを止めたのとほぼ同時に、リリーの透証が黒ずんだ。

 驚いた彼女は、小さく叫ぶ。

「何をするの?」

 生き物で例えるなら、死んだように見える透証の変化に、リリーは目の前の人物は本当に兄なのかと疑りだした。

しかし不思議なことに、先程とは真逆に、今度は見つめれば見つめる程、その人物は兄にしか見えなくなってくるのだった。

「透証の働きを、しばらくの間だけ強制的に停止した。これを使って――」

 兄が外套の内ポケットから取り出したのは、小さな護符だった。

「ある人から授けてもらったんだ。今日お前と会って、話をするために。このために結界を張って、透証の動きを止めるための魔法を一度だけ使えるように」

「何のためにこんなことを」

「今俺達がこうやって会ってるところを、見られてはいけないし、話していることを聞かれてはいけないんだ」

「誰に?」

 要領を得ない兄の言葉に、若干苛立ちながらリリーは詰め寄った。
訊ねたいことは、山程あった。

「お父さんとお母さんは? 三人ともどこに行ってたの? 二人は今どこにいるの?」

 自然と声は抑えて小さくなったが、それが兄の先程の言葉を受けてなのか、それとも無意識のうちに感情的にそうさせているのか、リリー本人にも分からなかった。

 そんな妹の様子を見て、兄の方は表情を歪める。

「すまない。あまり説明してやれない。けど二人共元気だよ。それは大丈夫。俺もこの通り。今はまだ……四人で会うことは、できないけど」

「なんで……っ」

 両腕に掴みかかった妹の腕を、優しく支えるように自らの手を添えると、再び兄は口を開く。

「時間は少ししかない。今は伝えることしかできない。お前に頼みがあるんだ。サユリ」

 リリーは言葉を発することが、できなくなってしまった。

 こんな目をした兄から見つめられることが、かつてあっただろうか。

歳の近い兄とは、いつも一緒に育ってきた。喧嘩も多かったが、仲の良い兄妹だったと自覚もある。

 五年の間に、一体何があったのだろう。こんなに切羽詰まった目をする人だっただろうか。

「家を守ってくれ」

「家?」

「家屋という意味だ。壊れることがないように……災害で最悪壁が倒れても、床が抜けても、どこか戸の一枚だけはきちんと立っているように、保持しておいて欲しいんだ。頼む」

 予想外の言葉だ。拍子抜けした表情を浮かべるリリーに、重ねるように切実な声音が投げられる。

「……とにかく頼む。建物を守ってくれ。俺も、父さんも母さんも、今はこの土地に戻ってくることはできない。お前に託すしかないんだ」

「何言ってるの? 災害って。お兄ちゃん、どういう意味?」

 より詳しい説明を求めるリリーの声に、返答はなかった。

 少しだけ済まなそうに、許しを請うような哀れな表情を妹に向けた後、再び口を開いた男から聞かされた言葉は、リリーを更に愕然とさせるものだった。

「今ここで俺に会ったことは、誰にも言うな」

「待って!」

 リリーの小さな叫びは、届かなかったのだろうか。

彼女の口から確かに飛び出したその言葉は、音になる前に、この世から消滅したのだと、リリーには感じられた。

 再び虫の羽音が聞こえたかと思うと、リリーは一人、賑やかで明るい商店街の真ん中に立っていたのだった。

 結界が熔けたのだと理解した時には、兄の姿を視界に捉えることはできなくなっていた。
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