43.世界ⅱ異変

文字数 2,096文字

 リリーは畳の上に敷かれた布団の上に、仰向けに横たわっていた。
その布団のすぐ隣には、小さな子供用の布団。その上で目を線のようにして寝息を立てているのは、産まれたばかりの我が子だった。

 小さな両手をバンザイするように、顔の横に上げて、時折ピクリと跳ねる。

 丸い孤を描く柔らかい頬に、産毛が生えているのが見えた。

 顔を寄せれば、新生児特有の甘く柔らかな香りが、鼻腔をくすぐる。

 その香りを嗅ぐと、たまらなく愛おしい気持ちになるのだった。
起こしたくない反面、このまま抱き上げて、ふわふわの頬に唇を押し付けたくなる衝動に駆られる。

 しかしリリーはそんな衝動を抑え、深く息を吐き出した。
瞼を閉じると、めまいを感じる。

 出産がこんなにも重いダメージを身体にもたらすなんて、想像していなかった。

 永久に続くかと思えた壮絶な痛みの連続。そこから開放されて、一週間が経とうとしているのに、未だに鈍い痛みと怠さが残ったままだ。
 食事や授乳のために、ちょっと身体を動かすだけで、完徹した朝よりも視界がふらついた。

「よく眠ってるね」

 部屋に入ってきたのは、ミツキだった。

漆塗りの丸盆の上に、軽食が乗っている。食事を運んできてくれたようだった。

「今のうちにゆっくり食べて、リリーさんも昼寝しちゃいなよ」

「ありがとう。ごめんね。連日上げ膳据え膳状態で、なんだか恥ずかしくなってきた」

「気にしなくていいよ。皆お世話するの、何だかんだ楽しんでるんだから。モモちゃんも可愛いし」

 上体を起こすのを、ミツキが手伝ってくれる。白湯を一口飲み込んで、リリーは、はぁと溜息をついた。

「お産ナメてた」

 リリーのおどけた表情に笑ったミツキだったが、すぐに首を振った。

「仕方ないって。何もかも想定外のことばかりだったもん」

 陣痛が始まったと知らせを受け取ってから、モモカが産まれてくるまでのことを振り返る。

 何もかも想定外のことばかり。
その通りだった。

 ヒノクニでは、自宅出産が一般的だ。妊婦が待機する住宅に、助産師が派遣されるのだ。

 助産師は特別な医療魔法を会得した有資格者だ。彼女たちが施す魔法処置によって、妊婦は基本的に初期段階の陣痛以上の痛みを感じること無く出産する。

『スイカを鼻から出すような痛みって例えは、聞いたことありますね』

 紡久が語った並行世界での出産事情を、ミツキもリリーも、にわかには信じられなかった。
男子で、しかも身近に妊婦がいた経験もない紡久が、説明できることは少なかったが、それだけでもリリーは震え上がったものだった。

 まさかそんな出産を、自分が経験するとは。
夢にも思わなかった。

「助産師さんの魔力、まだ戻らないのかしら」

 心配そうに呟くリリーに、ミツキは躊躇いがちに頷いた。

「……そうみたい」



***



 リリーの陣痛が起こったのは、八月十五日の夜半だった。

 以前から彼女が予見していたように、その晩に出産する妊婦は多かった。
 ジロウの屋敷で待機していたリリーの元に、助産師が駆けつけた時、既にその助産師は三人の妊婦の出産に携わった後だったのだ。

『前のお産が済んでから半日近く経ちましたから、魔力も回復してきた頃です。ご安心くださいね』

 働き詰めの中堅助産師を心配した面々に、彼女はそう説明して笑っていたのだ。

 しかし――――

『なぜ……? 魔力が戻ってない』

 誰よりも一番驚愕していたのは、助産師本人だった。

 しかし彼女から立ち上る魔力が弱々しく、殆ど霞む程度にしか見えないことは、その場の誰もが目の当たりにしていた。

 助産師の魔力は、枯渇寸前だった。

『とにかく、急いで別の者を呼びますから!』

 すぐに別の助産師が派遣されたが、彼女も同様だった。この助産師も既に別の出産の世話を済ませてきた後で、魔力は微量にしか残っていなかった。

 そうこうしている間に、陣痛はどんどん進んでいく。

 リリーは最初こそ場を和ませる冗談を言ったり、雑談していたものの、痛みのあまりそんな余裕は霧散する。

 等間隔に『痛い!』という叫びと、『あ、大丈夫かも』という気の抜けた言葉とを繰り返していたが、次第に痛みから少しでも逃れようとする絶叫を、繰り返すばかりとなった。

『死んでしまうのではないか?』
 
 焦りのあまり涙目になったエイマンを諭しているのは、ノマだった。

『私の祖母世代が若い頃は、お産を軽くする医療魔法が確立していなかったそうですよ。そんな時代でも赤ちゃんは産まれてきたんだから、大丈夫ですよ』

『海外ではこうやって、自然に任せて産むのが普通の国もあるんだろう? 並行世界でも、そうだっていうじゃないか』

 ジロウの言葉に頷いていたのは紡久だ。
 彼はリリーが痛みに泣き叫ぶ声が隣室から聞こえてくるたびに、顔をこわばらせていた。

 しかし、こんな状況下でも専門家達は冷静だった。

 助産師は、魔法を使えない状況下の分娩訓練も受けている。この場にいた助産師二人は、的確な手を施したのだろう。

 痛さを訴える叫びとは別の、何かに耐えるような一段低い叫びが、屋敷の廊下まで響き渡った後だった。

 リリーを心配して集まった人々の耳に、産声が聞こえてきた。
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