104.方法
文字数 2,675文字
ドアの向こうには階段が続いていて、それはちょうど、通っていた学校の非常階段によく似ていた。何階分くらい登っただろうか。踊り場のような場所を三、四回通ったから、五階分かもしれない。
勢いよく昇り始めたものだから、ペースが早くなってしまった。息が上がりかけたところで、目の前を誘導していた球体ロボットの動きが止まり、そこに再びドアがあることにユウキは気づいた。
「ここで終わり? ふう――」
ロボットのランプが激しく点滅して、ドアの鍵が解錠された音が聞こえる。
「お前たちはいいなぁ、疲れないみたいで」
ドアを超えたロボットの後を、ユウキの足が追う。軽く振り返りながら、後続の二体の半魚人にユウキが笑いかけた。
「あぁ、いい風だ」
潮の香りが運ばれてくる。前髪を掻き上げると、汗がにじみ始めた額に涼やかな海風が吹き付けた。
「屋上か」
柵の向こう側には、海が広がっていた。見下ろしてみると陸地が狭いので、海岸ぎりぎりの場所にこの建物は建てられているのだろう。
「夢の中みたいだな」
ちょうど昨晩見た夢の中で、侑子と二人、こんな風に同じ海を眺めていたのだ。つい先程の記憶である。
上を仰ぎ見れば、午前中の快晴の空が広がっていた。
「青って本当に良い色だ」
ユウキの笑顔に返すように、大きな半魚人がゆっくりと頷いた。自分の身体を覆う鱗を逆撫でて、シャラシャラと静かな美しい音を立てる。
「お前たちも、海に帰りたい?」
シャツの端をひっぱる小さな半魚人の手を繋いでやると、握り返す小さな力を感じた。
「……そうか。生まれてからまだ、一度も海に入ったことがないんだな」
三人は、目の前に広がる大海原を見つめていた。ユウキが口を閉ざすと、そこに聞こえる音は、波の音ばかりになる。
少し遠くに、数隻の国軍の船が見えた。結界とのギリギリの線で待機して、この施設への攻撃の機会を窺っているのだろう。
「困ったな」
ユウキは呟いた。
「分かってはいたけど、お前たちに情が涌いてくる。ミウネの作った恐ろしい兵器だって、分かっているよ。でも俺にはそれ以上に、お前達は半魚人なんだ。青い半魚人……俺と同じ」
『予知夢から、今度は正夢に変えるんだよ』
侑子に言った言葉を頭の中で繰り返す。
「お前たちを解放するには、どうすればいい?」
口をついて出たのは、そんな言葉だった。
「俺に救えるだろうか?」
小さな水かきのついた手に、ぎゅっと力が込められて、ユウキを見下ろす魚の顔が、彼に僅かに近づいた。
全てが同時だった。
頭上で大きな鳥が旋回した。その影がユウキの足元でくるりと動いた直後――――頭上から、声が聞こえてきた。
『彼の声で――――ミウネ・ブンノウの声で歌って』
『…………色の……イヴに相応しいでしょう。あなたと……グは、この世界の外側の人間。この世界の摂理か…………ている。この国に最後にやってきた来訪者が一対…………こと、そのうちの一人が命を……込む才を持っていたこと………………よ』
トン、と勢いよく肩に何かがぶつかって、それはそのままユウキにしがみつくように、シャツの肩をひっぱった。
ぷぷぅ……
大きく息を吐き出すような音と一緒に、聞こえたその音。
ユウキははっと、僅かに重さを感じる自分の左肩に目をやった。
『この歌を――――』
女の声だった。
「お前……」
ユウキの肩から、重さが消えた。
ブンノウがその重さを、取り除いていたからだった。
「……シグラは怖くなったのでしょうか」
夢の中でも聞いたその男の声は、深く、低く、ただそれだけだった。抑揚もなければ、呼吸や体温すら感じない。色で例えれば、無色透明だ。
――こんな声が、この世に存在するのか
ユウキが抱いた印象だった。
ブンノウは小さなあみぐるみを片手で握りしめると、そこから取り上げた薄く小さな物を足元に落とした。そして踵で踏み潰す。彼の足の下で原型をとどめていないことは想像できたが、ブンノウは足をどけて確かめようとはしなかった。
ぴぃ……
くぐもった弱々しい音が、哀しげにブンノウの握られた掌から聞こえてきた。
「離してやってくれないか」
ユウキの申し出に、ブンノウは素直に応じた。開いた掌から飛び出してきた小さな白クマのあみぐるみは、ユウキの胸元に飛びつくと、怯えたように彼の服の中へと潜り込んでいった。
「一緒に連れて行くといいですよ。一人では寂しいでしょう。恋人の温もりを宿したぬいぐるみのお供なんて、心を慰めるのに最適じゃないですか」
笑っているのに、笑っていない。ユウキが感じ取ったブンノウの感情は、嘲りと怒り、そして狂喜だった。
「……本当はあなたに私の声を聞かせる予定ではありませんでした。最後までね」
「理由は分かるよ、何となく」
「あなたの“才”は脅威だ」
は、と声が出た。ユウキの口は大きく笑う時の形になっていて、白い犬歯が覗いていた。
「終わらせてやる。色々言いたいことはあるけど、諸々終わった後からにしてやるよ。さしあたりムカついてることはな――人の恋人に他の男との子供を作るよう唆したこと、問答無用で両手両足の骨を折ったこととか」
涼しい顔のユウキに反して、ブンノウの瞳からは光が完全に消えていた。
――焦ってるじゃないか
ユウキは笑った。
「この男を、海中へ連れて行け」
命令は、ブンノウから二体の半魚人へ発せられたものだった。
「声を出せない海の底へ。底深くまで連れて行け。息が止まって水圧で肉体が潰れるまで、深く」
彼らは従順だった。
肩に担ぎ上げられたユウキは、鱗の冷たい感触を肌に感じた。その冷たさが、自分がこれまで内側から感じていたものとは別物であることに気づいて、その新しい発見に密かに息を呑んでいたのだった。
「結構良いもんだな」
大きな半魚人の、反対側の肩に乗った小さな半魚人に、ユウキは言った。
「お前たちに触られるの、とても気持ちいいね。良かった」
今まで夢の中で、侑子と触れ合ってきた思い出を回想した。彼女は少しも怯えてなかったし、不快そうな顔をしたこともなかったはずだったが、安心した。
「早くしろ。どうした。飛び降りろ」
息巻いた声が背後から聞こえてきた。
「沈んでしまえ!」
大きく揺れて、そして落下する。
眼の前で半魚人の背びれが立ったのが見えた。
――綺麗だ……透けている
たっぷりと油を含んだパラフィン紙のようだった。そんな背びれ越しに、輪郭がぼやけた真昼の太陽が見える。
背中の鱗が陽の光を受けて、海面の如く眩く輝いていた。
ユウキと二体の大小の半魚人は一塊となって、海面に大きな水柱を作った。
勢いよく昇り始めたものだから、ペースが早くなってしまった。息が上がりかけたところで、目の前を誘導していた球体ロボットの動きが止まり、そこに再びドアがあることにユウキは気づいた。
「ここで終わり? ふう――」
ロボットのランプが激しく点滅して、ドアの鍵が解錠された音が聞こえる。
「お前たちはいいなぁ、疲れないみたいで」
ドアを超えたロボットの後を、ユウキの足が追う。軽く振り返りながら、後続の二体の半魚人にユウキが笑いかけた。
「あぁ、いい風だ」
潮の香りが運ばれてくる。前髪を掻き上げると、汗がにじみ始めた額に涼やかな海風が吹き付けた。
「屋上か」
柵の向こう側には、海が広がっていた。見下ろしてみると陸地が狭いので、海岸ぎりぎりの場所にこの建物は建てられているのだろう。
「夢の中みたいだな」
ちょうど昨晩見た夢の中で、侑子と二人、こんな風に同じ海を眺めていたのだ。つい先程の記憶である。
上を仰ぎ見れば、午前中の快晴の空が広がっていた。
「青って本当に良い色だ」
ユウキの笑顔に返すように、大きな半魚人がゆっくりと頷いた。自分の身体を覆う鱗を逆撫でて、シャラシャラと静かな美しい音を立てる。
「お前たちも、海に帰りたい?」
シャツの端をひっぱる小さな半魚人の手を繋いでやると、握り返す小さな力を感じた。
「……そうか。生まれてからまだ、一度も海に入ったことがないんだな」
三人は、目の前に広がる大海原を見つめていた。ユウキが口を閉ざすと、そこに聞こえる音は、波の音ばかりになる。
少し遠くに、数隻の国軍の船が見えた。結界とのギリギリの線で待機して、この施設への攻撃の機会を窺っているのだろう。
「困ったな」
ユウキは呟いた。
「分かってはいたけど、お前たちに情が涌いてくる。ミウネの作った恐ろしい兵器だって、分かっているよ。でも俺にはそれ以上に、お前達は半魚人なんだ。青い半魚人……俺と同じ」
『予知夢から、今度は正夢に変えるんだよ』
侑子に言った言葉を頭の中で繰り返す。
「お前たちを解放するには、どうすればいい?」
口をついて出たのは、そんな言葉だった。
「俺に救えるだろうか?」
小さな水かきのついた手に、ぎゅっと力が込められて、ユウキを見下ろす魚の顔が、彼に僅かに近づいた。
全てが同時だった。
頭上で大きな鳥が旋回した。その影がユウキの足元でくるりと動いた直後――――頭上から、声が聞こえてきた。
『彼の声で――――ミウネ・ブンノウの声で歌って』
『…………色の……イヴに相応しいでしょう。あなたと……グは、この世界の外側の人間。この世界の摂理か…………ている。この国に最後にやってきた来訪者が一対…………こと、そのうちの一人が命を……込む才を持っていたこと………………よ』
トン、と勢いよく肩に何かがぶつかって、それはそのままユウキにしがみつくように、シャツの肩をひっぱった。
ぷぷぅ……
大きく息を吐き出すような音と一緒に、聞こえたその音。
ユウキははっと、僅かに重さを感じる自分の左肩に目をやった。
『この歌を――――』
女の声だった。
「お前……」
ユウキの肩から、重さが消えた。
ブンノウがその重さを、取り除いていたからだった。
「……シグラは怖くなったのでしょうか」
夢の中でも聞いたその男の声は、深く、低く、ただそれだけだった。抑揚もなければ、呼吸や体温すら感じない。色で例えれば、無色透明だ。
――こんな声が、この世に存在するのか
ユウキが抱いた印象だった。
ブンノウは小さなあみぐるみを片手で握りしめると、そこから取り上げた薄く小さな物を足元に落とした。そして踵で踏み潰す。彼の足の下で原型をとどめていないことは想像できたが、ブンノウは足をどけて確かめようとはしなかった。
ぴぃ……
くぐもった弱々しい音が、哀しげにブンノウの握られた掌から聞こえてきた。
「離してやってくれないか」
ユウキの申し出に、ブンノウは素直に応じた。開いた掌から飛び出してきた小さな白クマのあみぐるみは、ユウキの胸元に飛びつくと、怯えたように彼の服の中へと潜り込んでいった。
「一緒に連れて行くといいですよ。一人では寂しいでしょう。恋人の温もりを宿したぬいぐるみのお供なんて、心を慰めるのに最適じゃないですか」
笑っているのに、笑っていない。ユウキが感じ取ったブンノウの感情は、嘲りと怒り、そして狂喜だった。
「……本当はあなたに私の声を聞かせる予定ではありませんでした。最後までね」
「理由は分かるよ、何となく」
「あなたの“才”は脅威だ」
は、と声が出た。ユウキの口は大きく笑う時の形になっていて、白い犬歯が覗いていた。
「終わらせてやる。色々言いたいことはあるけど、諸々終わった後からにしてやるよ。さしあたりムカついてることはな――人の恋人に他の男との子供を作るよう唆したこと、問答無用で両手両足の骨を折ったこととか」
涼しい顔のユウキに反して、ブンノウの瞳からは光が完全に消えていた。
――焦ってるじゃないか
ユウキは笑った。
「この男を、海中へ連れて行け」
命令は、ブンノウから二体の半魚人へ発せられたものだった。
「声を出せない海の底へ。底深くまで連れて行け。息が止まって水圧で肉体が潰れるまで、深く」
彼らは従順だった。
肩に担ぎ上げられたユウキは、鱗の冷たい感触を肌に感じた。その冷たさが、自分がこれまで内側から感じていたものとは別物であることに気づいて、その新しい発見に密かに息を呑んでいたのだった。
「結構良いもんだな」
大きな半魚人の、反対側の肩に乗った小さな半魚人に、ユウキは言った。
「お前たちに触られるの、とても気持ちいいね。良かった」
今まで夢の中で、侑子と触れ合ってきた思い出を回想した。彼女は少しも怯えてなかったし、不快そうな顔をしたこともなかったはずだったが、安心した。
「早くしろ。どうした。飛び降りろ」
息巻いた声が背後から聞こえてきた。
「沈んでしまえ!」
大きく揺れて、そして落下する。
眼の前で半魚人の背びれが立ったのが見えた。
――綺麗だ……透けている
たっぷりと油を含んだパラフィン紙のようだった。そんな背びれ越しに、輪郭がぼやけた真昼の太陽が見える。
背中の鱗が陽の光を受けて、海面の如く眩く輝いていた。
ユウキと二体の大小の半魚人は一塊となって、海面に大きな水柱を作った。