30.世界ⅰ平穏な日々

文字数 1,514文字

「おはよう、侑子」

「おはよう」

「お兄ちゃん起こしてきて」

「はーい」

 こんな風に母がいる朝に慣れてから、どれくらい経っただろうか。

 相変わらず幹夫が帰ってくることは少なかったが、侑子にとって母と兄との三人家族で暮らす生活は、すっかり当たり前の日常となっていた。


「いってきます」

「いってらっしゃい」

 ありきたりだけれど、温もりを感じる挨拶を交わして登校する。



 日々は流れていった。





「ゆうちゃんおはよう」


「おはよう」


「宿題終わってる?」


「今日は何練習しよっか」


「あの曲やって欲しいな」


「なあ、じーちゃんがさ。またゆうちゃん連れてこいって言ってて」


「ねえ今度の日曜、たまには音楽以外で皆で遊びに行こうよ」


「おはよう」


「先週楽しかったね」


「放課後図書館行きたいな」


「そろそろ期末だぁ……」


「多摩川寄ってかない?」


「ゆうちゃん、佐藤先生が呼んでたよ」


「スタジオ予約した?」


「聞いた? 今年の体育祭、三年生でソーラン節やるんだって」


「一緒に帰ろう」


「ただいま」


「おかえりなさい」


「いってきます」


「もうすぐ先輩達卒業だね」


「次の会長誰がやるの?」


「ねえ大ニュース! 来年度から部活に昇格だって! 同好会じゃないよ。軽音部だよ!」


「送別会やろうか」


「ゆうちゃん、誰にも言わないでね。……先輩と、キスしちゃった」


「侑子もいよいよ受験生か。頑張れよ」


「修学旅行楽しみだね」


「お兄ちゃん。明日式場入り早いんだから、そろそろ寝なよ」


「リングガールやってもらえないかな?」


「あんた振り袖の着付けなんて、どうして一人で出来るの?」


「朔也くん、明日引っ越しか。寂しくなるな」


「ゆうちゃん、放課後なんだけどさ。部活終わったらまた河原行かない?」


「はぁ……また言えなかった。あ、何でもないよ」


「来週三者面談だね。志望校決まってる?」


「夏期講習行く? ゆうちゃん行くなら私も行こうかなぁ」


「遼くんの志望校、特進コースがあるんだ。蓮くんはそこが第一志望?」


「ここの高校の見学、一緒に行こうよ」


「夏祭り二人で行かない?」


「いってきます」


「明日のスタジオ、何コマ取ってたっけ」


「この問題解けないなぁ」


「もうすぐ引退か。寂しいもんだな」


「背伸びたね」


「おかえり。クリスマスパーティ、楽しかった?」


「お父さんも一緒に初詣行こうよ」


「明けましておめでとう。これお土産。合格祈願守り。ばーちゃんの地本、学業祈願で有名な神社があるんだ。ゆうちゃんの分もバッチリ祈ってきたから」


「雪、止まないね。明日電車大丈夫かな」


「受験票持った? 侑子なら大丈夫だからね。いってらっしゃい」


「おはよう。頑張ろうな」


「おかえり。今日は賢ちゃんちで皆で食べないかって。侑子たちのお疲れ様ディナーにしようってさ」


「きっと大丈夫」


「卒業おめでとう」







 繰り返される平和な日常。
 
 繰り返される親しい人達との会話。

 繰り返され、日々という名の時間がどんどん積み重ねられていく。

 侑子の中で、あの一年間は少しずつ確実に『過去』となり、積み重なっていく時間の下部へ下部へと沈んでいくのだった。

 だから侑子はいつも掘り起こす。

 地層の奥へ潜っていく記憶を、音を、見失わないように掘り起こす作業を繰り返すのだ。

 侑子にとって掘り起こす手段となるのは、歌うこと。

 そして、ユウキとの文通を続けることだった。

――止めてはだめ

 あの世界での経験を過去として風化させずに、記憶を更新し続けてくれるユウキからの手紙は、命綱のようなものだ。

 完全な過去として忘れてしまうことは、侑子にとって何よりも大きな恐怖。

 しかし、侑子にとっての一番の喜びと安らぎを与えてくれる存在は、紙一重で彼女を絶望の縁に立たせることもできてしまうのだ。
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