52.蕩尽
文字数 1,637文字
「ここ数日、全然姿を見かけないけど、どうされているんだ?」
すれ違いざまに掛けられた質問に、シグラは振り返ること無く答えた。
「籠もっているのよ。集中したいから」
珍しいことではないはずだ。
この廃墟を最後の場所と定めてからは、特に。
「“最後の部屋”にいるのか?」
ダチュラの声は笑っているように聞こえる。シグラの嫌いな響きだった。
「ええ」
最後の部屋とは、硝子壁に二分割された、あの部屋のことである。この研究所が完成してすぐにダチュラも入ったことはあったが、今ではあの場所に入室を許されるのは、シグラだけだった。――兵器が安置されている場所である。
「ミウネ夫人、お前は見たのか?」
からかうような口調の『夫人』の音だった。シグラの表情は変わらなかった。
「見たわ」
「へえ」
それ以上何も言わずに、ダチュラの足音は遠ざかっていく。最後の言葉尻にあからさまな敵意を感じたが、気にしない。相変わらず小さな男である。
ひび割れを補修した薬剤の匂いがする。廊下には換気口がないので、まだこの刺激臭は抜けていないのだ。
数ヶ月前にこの補修を行った作業員は、もう骨一つ残らずこの世に存在していない。
シグラは“最後の部屋”へと、足を進めた。
***
その部屋のドアを開けると、空間一杯に立ち込めた魔力を感じた。
白に近い淡い空色。その中に時折、ほぼ黒と言っても過言ではない、艶のない紫が見える。
ブンノウの魔力は人工的で、不可解な青をしている。初めて彼の魔力を感じた時、シグラは本当にそれが生身の人間が発している気配なのかと、にわかには信じられなかった。
しかしそんな稀有な色の魔力すら、シグラにはすぐに崇拝の対象になってしまったのだから、ブンノウにとっては意図せずとも好都合だっただろう。
「シグラ」
硝子壁の向こう側から、ブンノウが出てきた。漏れ出る魔力は濃い。今までずっと、魔法を捻出していたのだと分かった。
「もうすぐ終わりそうですよ」
微笑んでいる。彼にしては生々しい表情だ。余程嬉しいのだろう。
「魔力は、足りそう?」
「ええ。ずっと使っていませんでしたから。この時のために」
「良かったわね」
シグラの視線は、硝子壁の奥――銀色の作業台の上へと注がれていた。
二つの長細い塊が見える。少し前までつるつると滑らかな金属だった表面は、今では様変わりしていた。複雑な装飾が施されている。もはやただの円筒形ではなく、それは今にも動き出しそうな形をしていた――ブンノウの魔法によって。
「あなたがこんな美的センスを持っていたなんて、知らなかった」
シグラは素直に美しいと思った。
この兵器は、美しい。
その美がブンノウの手によって生み出されたという事実が意外で、初めて目にした彼の一面に、改めて畏怖を感じる。
「最後の最後で、こんなに仕様変更しようとは思っていなかったんですよ。私にも大変予想外だった」
「そうなの?」
「ただの円筒でよかった。それが効率がいいのだから。でも、こちらの方がずっと美しいし、面白い」
面白い、という言葉をゆっくり発音して、ブンノウは笑った。
「素晴らしい知らせを寄越してくれた我が息子に、感謝しないといけませんね。……シグラ」
肩に手を置かれて、呼ばれた彼女は顔を上げてその研究者を見上げた。
目を瞠る。
今まで見たことのないほど、血の通った人の表情が、そこにあった。
「直感です。私が直感を信じるなんて、珍しいでしょう? だから的中するかも知れない。……もうすぐ合図が来ますよ。シグラ、才を解放してください」
目が離せない。
頷いた。
「最後の天膜破りに、行きましょう」
シグラは胸ポケットから、小さな金属ケースを取り出した。その中には、掌におさまるほどの小さな、刃物が光を湛えていた。無表情の白い輝きだった。
「そっちの仕上げは?」
兵器に目をやって訊ねれば、すぐに返事が返ってきた。
「もう終わります。今日中には。もうそれで、私の魔力は使い尽くすでしょう」
シグラは頷いて、最後の部屋を後にした。
すれ違いざまに掛けられた質問に、シグラは振り返ること無く答えた。
「籠もっているのよ。集中したいから」
珍しいことではないはずだ。
この廃墟を最後の場所と定めてからは、特に。
「“最後の部屋”にいるのか?」
ダチュラの声は笑っているように聞こえる。シグラの嫌いな響きだった。
「ええ」
最後の部屋とは、硝子壁に二分割された、あの部屋のことである。この研究所が完成してすぐにダチュラも入ったことはあったが、今ではあの場所に入室を許されるのは、シグラだけだった。――兵器が安置されている場所である。
「ミウネ夫人、お前は見たのか?」
からかうような口調の『夫人』の音だった。シグラの表情は変わらなかった。
「見たわ」
「へえ」
それ以上何も言わずに、ダチュラの足音は遠ざかっていく。最後の言葉尻にあからさまな敵意を感じたが、気にしない。相変わらず小さな男である。
ひび割れを補修した薬剤の匂いがする。廊下には換気口がないので、まだこの刺激臭は抜けていないのだ。
数ヶ月前にこの補修を行った作業員は、もう骨一つ残らずこの世に存在していない。
シグラは“最後の部屋”へと、足を進めた。
***
その部屋のドアを開けると、空間一杯に立ち込めた魔力を感じた。
白に近い淡い空色。その中に時折、ほぼ黒と言っても過言ではない、艶のない紫が見える。
ブンノウの魔力は人工的で、不可解な青をしている。初めて彼の魔力を感じた時、シグラは本当にそれが生身の人間が発している気配なのかと、にわかには信じられなかった。
しかしそんな稀有な色の魔力すら、シグラにはすぐに崇拝の対象になってしまったのだから、ブンノウにとっては意図せずとも好都合だっただろう。
「シグラ」
硝子壁の向こう側から、ブンノウが出てきた。漏れ出る魔力は濃い。今までずっと、魔法を捻出していたのだと分かった。
「もうすぐ終わりそうですよ」
微笑んでいる。彼にしては生々しい表情だ。余程嬉しいのだろう。
「魔力は、足りそう?」
「ええ。ずっと使っていませんでしたから。この時のために」
「良かったわね」
シグラの視線は、硝子壁の奥――銀色の作業台の上へと注がれていた。
二つの長細い塊が見える。少し前までつるつると滑らかな金属だった表面は、今では様変わりしていた。複雑な装飾が施されている。もはやただの円筒形ではなく、それは今にも動き出しそうな形をしていた――ブンノウの魔法によって。
「あなたがこんな美的センスを持っていたなんて、知らなかった」
シグラは素直に美しいと思った。
この兵器は、美しい。
その美がブンノウの手によって生み出されたという事実が意外で、初めて目にした彼の一面に、改めて畏怖を感じる。
「最後の最後で、こんなに仕様変更しようとは思っていなかったんですよ。私にも大変予想外だった」
「そうなの?」
「ただの円筒でよかった。それが効率がいいのだから。でも、こちらの方がずっと美しいし、面白い」
面白い、という言葉をゆっくり発音して、ブンノウは笑った。
「素晴らしい知らせを寄越してくれた我が息子に、感謝しないといけませんね。……シグラ」
肩に手を置かれて、呼ばれた彼女は顔を上げてその研究者を見上げた。
目を瞠る。
今まで見たことのないほど、血の通った人の表情が、そこにあった。
「直感です。私が直感を信じるなんて、珍しいでしょう? だから的中するかも知れない。……もうすぐ合図が来ますよ。シグラ、才を解放してください」
目が離せない。
頷いた。
「最後の天膜破りに、行きましょう」
シグラは胸ポケットから、小さな金属ケースを取り出した。その中には、掌におさまるほどの小さな、刃物が光を湛えていた。無表情の白い輝きだった。
「そっちの仕上げは?」
兵器に目をやって訊ねれば、すぐに返事が返ってきた。
「もう終わります。今日中には。もうそれで、私の魔力は使い尽くすでしょう」
シグラは頷いて、最後の部屋を後にした。