64.余裕

文字数 2,583文字

 流行り病が流行りと言えるのか、もはや疑問にすら思わない程、世の中に浸透していった。

 侑子と裕貴は今まで通り一緒にバンド活動を続けたし、時間が合えば同じ電車で通学した。

少しだけ二人でいる時間が増えて、その増えた時間は、いつも他に誰もいない部屋の中で経過する。

 キスを交わしながら腕の中に引っ張り込まれる瞬間に、侑子は最も裕貴に異性を感じた。
 身体の大きさも、皮膚の柔らかさも異なる誰か。その人はいつも無条件に侑子を求め、蹂躙したい本能と、深部に触れることに赦しを乞う理性とを、ひたすら戦わせているようだった。

 寝具の上に向かい合って倒れた後、いつも裕貴の時間だけ止まったように、彼の動きは少しだけ停止する。侑子の顔を見つめて、指先で輪郭を擽るようにそっと触れる。
「どうしたの?」と侑子が問いかけることもあったし、腕を伸ばして、見下ろしてくる彼の目尻に触れることもあった。侑子からのアクションがあった後、再生ボタンが押されたように、裕貴の動きは再開する。

 そこからは性急だった。

深い口づけの後に、裕貴の唇は首筋から鎖骨を往復する。その間に指は侑子の身体を愛撫しながら、纏わりつく布を取り除いてしまうのだ。

 肌と肌が触れ合う感触は、果てし無い安堵をもたらす一方で、身体の芯を痺れさせる、毒を生み出す作用が有るに違いない。身体が(ほど)けていく感覚に恍惚としながら、侑子はそんなことを考えていた。

「見て」

 この行為の最中に、裕貴は度々そう口にした。
 初めて触れられた時がピークで、その後は鋭い痛みは感じなくなっていった。それ以降その場所を拓かれる度に感じるのは、脳が泡立つような官能の波ばかりだ。
 意識が翔びそうになる甘い刺激を、侑子は歓迎しているのだ。
意識レベルでバラバラになって、開放された悦びだけが、確実に理解できる。
自分の肉体的な境界線が曖昧になって、別次元へとトリップしていく――――

 だからこそ裕貴から求められる度に応じたし、彼の期待にも応えたいとも思った。

「教えて? どうしたら感じるのか」

 唇を塞がれていては答えようがないのに、裕貴は問いかけた後に必ず長いキスをする。指は侑子の中を探り続け、少しでも侑子が反応を示すと、同じ場所を攻め立てた。

 ようやく唇が自由になった時、情けない嬌声を止められなくなる。
 絶頂を感じたことは初めてではないのに、その瞬間を迎えそうになるたびに、例えようもない恐怖を感じる。それに抗うように無意識に身体が強ばるけれど、そうするとまたそれに抵抗するように、侑子の身体は快を求めるのだった。

 溺れている間は、何も考えなくて済む。

――――悲しさも、絶望感も、不安も、将来も、過去さえも

 マスクからは解放されているはずなのに、窒息しそうだった。

「こっち見て」

 刺激を受け流せないまま、快感の波がやってくる。裕貴が発した言葉を把握できぬまま、侑子は身体を弓なりに反らして震えていた。
 太腿が冷たい。
押し広げられながら、裕貴の身体が覆いかぶさってきた。軋む音を二人の耳に届けるように、寝具が沈み込む。

 小さな痙攣は鎮まっていない。そこに上書きするように、小刻みな快楽が襲いかかる。
裕貴の荒い息遣いが耳朶を撫で、彼の手が侑子の長い黒髪を掬い取った。


***


 閉じそうになる瞼を堪えて、裕貴は目を細めた。
吸い付いていた滑らかな首筋から顔を上げ、上体を起こすと、両腕の間に愛しくて仕方のない人がいた。
律動を止めたので、やや余裕を取り戻した表情で、此方を見つめている。

――いまだに、信じられないな

 ずっと欲しくて堪らなかった人だ。
自分だけを見てほしくて、自分しか聞いたことのない声を聞かせてほしくて、こんな風に抱く妄想を、何度繰り返してきただろう。

 初めて河原でキスをした時も、身体を重ねた時も、侑子は裕貴を拒まなかった。

試すように“手塚勇輝”の名を出してみたが、動揺する様子も見えなかった。
 正直意外だったが、侑子に触れることができた裕貴は、一気に有頂天になってしまったので、その時はそれ以上、その男のことを考えることはなかったのだ。

――だけど

 真っ直ぐに射抜くように見つめられると、途端に自信がなくなってくる。

――本当に俺を見ているのだろうか

 侑子の瞳に映り込む自分の輪郭は、本当に自分のものなのか。

 手塚勇輝の容姿を、裕貴は知らない。

愛佳や遼は写真で見たことがあるらしいが、裕貴には見せてくれと申し出る勇気が出なかった。

見てしまったら最後。

何かが終わってしまう予感がした。

侑子の瞳に映るのが、自分ではない誰かに変わる気がして怖かった。

「野本くん?」

 呼ばれて、裕貴は思考の渦を追いやった。

相変わらず名字で呼ぶ侑子に苦笑いしつつ、下の名を呼ばれることにも抵抗があった――――ユウキ。
彼と同じ名前なのだ。なんて皮肉だ。

「ゆうこ」

 二人きりの時、裕貴は侑子を名前で呼んだ。

柔らかい響きと、納まりの良い音が好きだ。自分の声で再生される彼女の名は、なんて素晴らしいのだろう。

「侑子、侑子」

 何度でも呼びたくなる。
その度に侑子は、応えるように裕貴に触れてくれる。首に腕を回し、やわやわと頭を撫でてくれる。

――今、何を考えてる?

 何も考えなくていい。
誰のことも。
特定の誰かに、思いを馳せないで欲しい。たとえそれが、裕貴のことであったとしても。

 思考の中で人物の像を結ぶ程の余裕を、侑子に与えたくなかった。

ただ、溺れればいい。
深い悦楽の泥の中に沈んで、はしたなく喘げばいい。

少なくともそれだけの刺激を侑子に与えうる人物は、裕貴だけなのだから。
その間違えようのない事実がないと、裕貴は侑子に口づける自信すら湧かなかった。

 意味ある単語を繋げることのなくなった侑子の声を聞きながら、自分も余裕がなくなっていく。侑子の方は、返事を返すことすらなく、ただ必死に裕貴にしがみついていた。
そんな様子に多幸感が湧き出してくる。

 背筋に稲妻が走るような感覚を覚え、裕貴は低いうめき声を漏らした。
 背中にしがみついていた侑子の両手が、シーツの上に投げ出される。
脱力しただけと分かるのに、裕貴はその手を再び自分の身体に巻き付かせた。

 焦点が合っていない侑子の目尻に、啄むようなキスを二三落として、唇を塞いだ。
差し込んだ舌に侑子が応えた水音が耳に届いて、ようやく裕貴は安堵するのだった。
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