53.リハーサル
文字数 1,657文字
四月も下旬だが、その日は昼間から肌寒かった。
花冷えというには季節は下りすぎていたが、正にその表現がしっくり来るような冷え方である。
「昨日はあんなに暖かかったのにね」
ぶるりと身振りしたミユキが、ノースリーブの衣装の上からパーカーを羽織った。控室の空調は稼働しておらず、衣類で温度管理をするしかない。
「ユーコちゃん、寒くないの?」
同じく袖のないワンピース姿だった侑子に、ミユキが声をかける。
「さっきまで歌ってたからかな。身体温まってるみたい」
ユウキとの散歩で街を散策ついでに、広場で歌ってきたのだった。
王都の噴水広場を思わせる場所で、大道芸人達が曲芸を披露していた。その一角で、ユウキが提案したのだ。
衣装も身に着けていなかったが、二人が歌いだして程なく、側にいた芸人の一人が楽器の音を歌声に合わせてきたのだった。
「リハの前にリハやってきちゃったみたいなものね」
侑子の話を聞いたミユキは、可笑しそうに笑った。
「楽器を持ってる人がちょっとずつ増えてきて、音が増えて行ってね。すごく楽しかったんだよ」
いつの間にか踊りだした身体は、あっというまに熱くなった。
思い返しただけで、つま先が再びステップを刻みそうになる。
「何の曲やったの?」
「それがね」
興奮気味に話す侑子は、無意識に前のめりになっていた。
「私たちの曲しか歌ってないの。皆知ってたんだよ」
「へえ」
ミユキの瞳が、嬉しそうに大きく見開かれた。
「古典曲や民謡じゃなくて、私たちが普段ライブハウスでやってる曲?」
「そうだよ」
「いつの間にか、そんなに知名度上がってたんだ」
たまたま居合わせた大道芸人達が、演奏出来るほどに。
その事実は、ミユキはもちろん、ユウキを舞い上がらせるには十分過ぎるものだった。
「嬉しいね」
「うん!」
「なんだか燃えてきた! 今夜も全力で叩けそう」
ミユキは両手をぎゅっと握り込んだ。
もうすぐリハーサルが始まる。
今夜は昨夜訪れた研究室の面々も来場予定だった。
「楽しいって言わせて帰す」
その言葉は、ステージに上がる直前のユウキが、よく口にするものだった。
――言霊だ
これも言霊だろう。
そして毎回実現している。
――全力で歌おう
意気込めは意気込むほど、楽しみを待つ子供のように、胸の中は息苦しいほどの期待感でいっぱいになっていく。
一刻も早く歌いたくなって、侑子はステージへ向かうドアへ足を向けていた。
***
「ユーコちゃん、鏡貸してくれない?」
リハーサル後の控室で、ユウキが侑子の肩を叩いた。
「どうしたの?」
「目にゴミが入ってるみたいで」
片目をしばたたかせている。
侑子はロッカーを開いて、バッグの中からコンパクトミラーを取り出してきた。裕貴から贈られた、鱗模様の螺鈿細工が輝く、あの鏡だった。
ユウキに手渡すことに躊躇はしない。
この鏡を手元に残したままにするのか、侑子は一時悩んだものの、ユウキの『持っていなよ』の一言で心は決まったのだ。
『綺麗だ。この模様、俺の衣装みたい……不思議だね。この鏡、どうしてノモトくんは、君のものだと直感したんだろう』
裕貴と恋人関係だったことを打ち明けた夜、ユウキは鏡の螺鈿細工を指先で撫でながら、考えを巡らせているようだった。
『……普通他の男からの贈り物なんて、さっさと手放してもらいたいと思うんだろうな。でもこれは、持っていなよ。悪い気がしないのは、きっとその模様があの半魚人の色だから。この青い鱗は、ユーコちゃんがこの世で一番美しいと思う色をしているんでしょ?』
六年前の曙祝の席で、侑子は純白のワンピースを硝子の鱗で埋め尽くした。
夢の中の半魚人の身体を覆っていた鱗と、全く同じ色に染めたのだ。
侑子の中で最も美しいと感じる色は、あの頃も今も変わっていない。
「大丈夫?」
二つに開いた鏡の、拡大鏡に緑の瞳が大きく映し出されていた。
ユウキが身じろぐと、外柄の螺鈿細工に室内の光が当たって鱗模様が燦めく。その模様は、侑子とユウキが今身につけているステージ衣装と瓜二つだ。
その時、控室のドアがノックされた。
花冷えというには季節は下りすぎていたが、正にその表現がしっくり来るような冷え方である。
「昨日はあんなに暖かかったのにね」
ぶるりと身振りしたミユキが、ノースリーブの衣装の上からパーカーを羽織った。控室の空調は稼働しておらず、衣類で温度管理をするしかない。
「ユーコちゃん、寒くないの?」
同じく袖のないワンピース姿だった侑子に、ミユキが声をかける。
「さっきまで歌ってたからかな。身体温まってるみたい」
ユウキとの散歩で街を散策ついでに、広場で歌ってきたのだった。
王都の噴水広場を思わせる場所で、大道芸人達が曲芸を披露していた。その一角で、ユウキが提案したのだ。
衣装も身に着けていなかったが、二人が歌いだして程なく、側にいた芸人の一人が楽器の音を歌声に合わせてきたのだった。
「リハの前にリハやってきちゃったみたいなものね」
侑子の話を聞いたミユキは、可笑しそうに笑った。
「楽器を持ってる人がちょっとずつ増えてきて、音が増えて行ってね。すごく楽しかったんだよ」
いつの間にか踊りだした身体は、あっというまに熱くなった。
思い返しただけで、つま先が再びステップを刻みそうになる。
「何の曲やったの?」
「それがね」
興奮気味に話す侑子は、無意識に前のめりになっていた。
「私たちの曲しか歌ってないの。皆知ってたんだよ」
「へえ」
ミユキの瞳が、嬉しそうに大きく見開かれた。
「古典曲や民謡じゃなくて、私たちが普段ライブハウスでやってる曲?」
「そうだよ」
「いつの間にか、そんなに知名度上がってたんだ」
たまたま居合わせた大道芸人達が、演奏出来るほどに。
その事実は、ミユキはもちろん、ユウキを舞い上がらせるには十分過ぎるものだった。
「嬉しいね」
「うん!」
「なんだか燃えてきた! 今夜も全力で叩けそう」
ミユキは両手をぎゅっと握り込んだ。
もうすぐリハーサルが始まる。
今夜は昨夜訪れた研究室の面々も来場予定だった。
「楽しいって言わせて帰す」
その言葉は、ステージに上がる直前のユウキが、よく口にするものだった。
――言霊だ
これも言霊だろう。
そして毎回実現している。
――全力で歌おう
意気込めは意気込むほど、楽しみを待つ子供のように、胸の中は息苦しいほどの期待感でいっぱいになっていく。
一刻も早く歌いたくなって、侑子はステージへ向かうドアへ足を向けていた。
***
「ユーコちゃん、鏡貸してくれない?」
リハーサル後の控室で、ユウキが侑子の肩を叩いた。
「どうしたの?」
「目にゴミが入ってるみたいで」
片目をしばたたかせている。
侑子はロッカーを開いて、バッグの中からコンパクトミラーを取り出してきた。裕貴から贈られた、鱗模様の螺鈿細工が輝く、あの鏡だった。
ユウキに手渡すことに躊躇はしない。
この鏡を手元に残したままにするのか、侑子は一時悩んだものの、ユウキの『持っていなよ』の一言で心は決まったのだ。
『綺麗だ。この模様、俺の衣装みたい……不思議だね。この鏡、どうしてノモトくんは、君のものだと直感したんだろう』
裕貴と恋人関係だったことを打ち明けた夜、ユウキは鏡の螺鈿細工を指先で撫でながら、考えを巡らせているようだった。
『……普通他の男からの贈り物なんて、さっさと手放してもらいたいと思うんだろうな。でもこれは、持っていなよ。悪い気がしないのは、きっとその模様があの半魚人の色だから。この青い鱗は、ユーコちゃんがこの世で一番美しいと思う色をしているんでしょ?』
六年前の曙祝の席で、侑子は純白のワンピースを硝子の鱗で埋め尽くした。
夢の中の半魚人の身体を覆っていた鱗と、全く同じ色に染めたのだ。
侑子の中で最も美しいと感じる色は、あの頃も今も変わっていない。
「大丈夫?」
二つに開いた鏡の、拡大鏡に緑の瞳が大きく映し出されていた。
ユウキが身じろぐと、外柄の螺鈿細工に室内の光が当たって鱗模様が燦めく。その模様は、侑子とユウキが今身につけているステージ衣装と瓜二つだ。
その時、控室のドアがノックされた。