55.世界ⅰ予感

文字数 2,250文字

 年が明け、二〇二〇年になった。

「やあねえ。新型肺炎だって」

 侑子は引き出しからアルミスプーンを取り出したところだった。
金曜夜の恒例である。二十一時から母と二人で、コンビニアイスを食べながら映画鑑賞するのだ。

 映画番組前の定時のニュースだ。
テレビ画面に映し出されているのは、中国武漢市の様子。病院で診療を待つ人々が、長い列をなしている。

「日本にも入ってくるのかな」

「さあ……どうだろう。大事にならないといいけど。肺の病気か。思い出すわね。侑子が生まれた年にも、こんな感じで中国発の肺病が騒がれたの」

SARS(サーズ)だっけ?」

「そうそう。日本ではそんなに騒がれないまま流行が終わったの。これも同じようになればいいけど……」

 二人が話している間にニュースが終わり、CMが流れ始めた。やけに明るい曲をバックに、売出し中の若手俳優が商品名を連呼している。

 侑子も依子も、先程の短いニュースの残した余韻を、何故か振り切れずにぼんやりしていた。
病院の前で陰鬱な表情を浮かべぐったりしている人や、憤怒して捲し立てている人々の残像が頭から消えない。

 それが何かの予兆を感じさせる不気味なサインに思えて、侑子は思考を振り切ろうとした。

「アイス溶けちゃうよ」

 映画番組の始まりを知らせる音楽が聞こえてくる。

 侑子はカップアイスの蓋を開けた。
既に柔らかくなっていることが分かった。持ち上げた紙容器は、侑子の指の形に窪んだのだった。




***




 嫌な予感というのは、どうしてこうも的中するのだろう。

三学期が進むに連れて、新種の流行り病が落とす影は、確実に濃く、範囲を広げていった。 

 日本国内で一人目の感染者が確認されると、ドミノが倒されたように次々に新たな報道と情報が、日常に流れ込んできた。
 
 真偽が分からない。

 踊らされていると分かるのに、止まることができない。

 三学期に予定されていた、学校行事の多くが中止された。
 部活動にも制限がかけられ、密室で声を出す活動――軽音楽部はもちろん該当した――は、当面の間活動を見合わすようにと、お達しが下されてしまった。


 買い占めご遠慮ください。

 品薄。

 欠品。


 そんなポップが街中に溢れた。
依子や望美たちが、どこのスーパーにトイレットペーパーがあったよ! 等と連絡を交わしていた。学校帰りにドラッグストアを覗くことが、侑子も習慣化していた。部活ができない放課後に、久々に裁縫道具を広げるようになった。マスクを作るためだった。



「卒業式の日、三年生だけ登校になるんだって」


「送別会中止だってさ」

 
 冬休みが近づいてきた頃、学校ではそんな話題を交わすことが多かった。
 
 部活もないので、侑子も結衣も楽器を担いで登校することがなくなっていた。身軽なものである。

「来週のスタジオ予約どうする?」

「私しておくよ。ちょうど今日ギタースクールあるし、近くだから直接行ってくる」
 
 昼休み、二人は並んでテラスに出ていた。校庭でサッカーをしている男子生徒達が見える。

 部活はできなくなってしまったが、侑子達は最低でも週に一度は、音楽スタジオでバンド練習を継続していた。
金銭的に厳しいが、やむを得ない。無料で利用できる公営のスタジオや音楽室は、感染症を警戒して使用できなくなっていた。

「バイトのシフト増やそうかなぁ。スタジオ代にもなるし。部活ないとさ、やっぱり時間余るよね」

 結衣はため息混じりに呟いた。

 予鈴が鳴った。

 校庭に散らばる生徒達が、昇降口へ向かって流れ出す。
その内の一人が、ふと此方を見上げて侑子と目が合った。裕貴だった。笑顔で手を振ってくる。

 振り返した侑子を見て、結衣はわざと声をひそめた。

「ねえ、本当に二人付き合ってないの?」

 何度目かの同じ質問だったので、侑子の方も返答には慣れている。

「ないよ」

「野本の方は、絶対侑子に気があるの確定だと思うんだけどな」

「……」

 教室に入りながら、侑子は唇を引き結んだ。

結衣の言った言葉は、侑子も同様に感じているところだった。
おこがましい考えだと思うし、思い違いならばそれで構わないのだ。しかし外れてはいないと思う。

 裕貴は侑子に気がある。
匂わす言動が増えてきたのは、夏の合宿前後からだ。
ユウキのことをやけに気にしているのは、侑子の彼に対する感情を少なからず察しているのだろう。ユウキと張り合うような発言が多いし、ユウキの書いた曲を習得しようとする集中力は凄まじかった。

 決して思いを口にすることはなかった。「好き」だとか「付き合いたい」と言われたことはない。そう告げられるのではないかと身構える場面はあったが、そんな時に裕貴が口にするのは、決まって「俺と歌って」という言葉だった。

 裕貴と歌うことは好きだ。彼の歌唱力は高いし、どんなに難易度の高いユウキの曲であっても、裕貴と一緒なら歌い上げることができた。

 けれど、歌で応えることはできても、同じ気持ちを返すことはできないだろう。
 
 触れ合えないし、声すら聞こえない。最近では写真で姿を見ることも稀だ。
そんな繋がりしか持てない状況だが、侑子が恋をしているのは、並行世界の向こうにいるユウキなのだ。

――告白なんて、ずっとされなかったらいい。このままでいい

 ずるいのだろうか。
自分の気持ちだけを守って、裕貴の気持ちを蔑ろにしている。
心地の良い今の関係が、ずっと継続されていけばいいと考えている。

 未来が読めない不安定な空気が世間に垂れ込める中、侑子は少しでも心の均衡を失わないように願うことしかできなかった。

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