113.往古来今
文字数 1,537文字
穏やかな波が繰り返す海原は、急速に色を変えていった。水平線に近い場所は橙に染まり、それが空から分けてもらった色であることが分かる。
昼間は快晴だったはずなのに、いつの間にか雲の姿があった。そのことに侑子が気づいたのは、夕焼けが綺麗だと、思わず上を仰ぎ見てからだった。
硬い錆で覆われた丸いハンドルを、二人分の手が握っていた。
向かい合って座った先に見えるのは、此方を見つめる緑の瞳。その後ろには、黄昏の空が広がっている。
「回らないね」
そう言った彼の頭上には、もう半魚人の上顎はない。首に巻き付いていた小さな腕の骨も。
先程ここへ向かう途中で、王府職員の手へと渡ったのだ。今回の事件とブンノウの兵器についての、調査のためだそうだ。
「現実の世界では、もうずっと長い間止まったままだったんだよ」
力を込めても、そのハンドルはびくともしなかった。
夕焼け空にはまだ星の姿はなく、カップが回ったとしても、バルブ撮影のような景色を見ることはないだろう。
侑子とユウキが腰を降ろしたカップ内の椅子の表面にも、至る所に錆色は広がっている。ザリザリとした感触が、肌を通して伝わってきた。
「ノモトくんに助けられたね」
ユウキが言って、侑子は借りっぱなしの彼のジャケットから、コンパクトミラーを取り出した。
鱗模様の螺鈿細工が輝く。鏡を開くと、亀裂が入った拡大鏡が顔を出した。
もう片面にあったはずの鏡は失われている。ブンノウの顔面に打つかった時か地面に落ちた時の衝撃で、土台から完全に剥がれ落ちてしまったのだ。
「クマベエにも」
侑子の言葉に反応して、ブレスレットに巻き付く白い糸が踊るようにくるくると回っている。
「そして、ユウキちゃんの“才”にも」
「まさかあんなに苦しめられた自分の“才”に、こんな形で救われるとは思ってなかったよ」
ユウキは穏やかに微笑んだ。
「これで全部、終わったのかな」
「全部って?」
侑子の問いかけに、ユウキが質問を返す。
「私達が見た夢は、これでお仕舞いになったんだと思う?」
天膜の破壊と、ヒノクニの理の崩壊。
その原因は突き止められ、これ以上の綻びを止める措置はできたと言えるのだろう。
「私達はブンノウとシグラが見た夢を、修正するためにあの夢を見たのかな……」
「俺はそっちはただのおまけだと思ってるけど」
ハンドルの上の侑子の手に、褐色の手が重なった。
「おまけ?」
「あの夢は、俺たちを結びつけるために見たものだよ。他の奴らのツイてない運命の、尻拭いのためじゃない」
くしゃりと笑った顔のまま、ユウキは握った侑子の手を持ち上げると、そこにゆっくりとキスを落とした。
「だから終わってないさ。俺たちはこれからもずっと、続いていくんだから」
頷いた侑子の耳に、仲間達の声が聞こえてきた。港町へ戻るのだろう。
「帰ろう、ユーコちゃん」
回転することのないコーヒーカップから、二人は立ち上がった。
「まずは港町まで戻って、できなかったあの夜のコンサートをしよう。ライブハウスは使えないけど、歌う場所はどこでも良いんだ。あの大学の研究員達、みんな無事だったよ」
手を繋いで話すのは、これからの未来の話だ。
「クマベエも元に戻してあげなくちゃ。糸は多分足りないから、新しいのも使わないとダメだけど」
「全く同じクマを作れるの?」
「それは無理だなぁ。あみぐるみって同じに編んでも、一つひとつ違う感じにできちゃうんだよ」
「手作りってそういうものだ。新しいクマベエは、どんな姿になるのか楽しみだね。編み上がったら、また俺が鱗をつけてあげる」
ブレスレットから糸端を伸ばして、クマベエの欠片がくるくると楽しげに踊った。
ぴぃ ぷぅ
そんな脳天気な声が聞こえる気がして、二人は顔を見合わせて笑った。
昼間は快晴だったはずなのに、いつの間にか雲の姿があった。そのことに侑子が気づいたのは、夕焼けが綺麗だと、思わず上を仰ぎ見てからだった。
硬い錆で覆われた丸いハンドルを、二人分の手が握っていた。
向かい合って座った先に見えるのは、此方を見つめる緑の瞳。その後ろには、黄昏の空が広がっている。
「回らないね」
そう言った彼の頭上には、もう半魚人の上顎はない。首に巻き付いていた小さな腕の骨も。
先程ここへ向かう途中で、王府職員の手へと渡ったのだ。今回の事件とブンノウの兵器についての、調査のためだそうだ。
「現実の世界では、もうずっと長い間止まったままだったんだよ」
力を込めても、そのハンドルはびくともしなかった。
夕焼け空にはまだ星の姿はなく、カップが回ったとしても、バルブ撮影のような景色を見ることはないだろう。
侑子とユウキが腰を降ろしたカップ内の椅子の表面にも、至る所に錆色は広がっている。ザリザリとした感触が、肌を通して伝わってきた。
「ノモトくんに助けられたね」
ユウキが言って、侑子は借りっぱなしの彼のジャケットから、コンパクトミラーを取り出した。
鱗模様の螺鈿細工が輝く。鏡を開くと、亀裂が入った拡大鏡が顔を出した。
もう片面にあったはずの鏡は失われている。ブンノウの顔面に打つかった時か地面に落ちた時の衝撃で、土台から完全に剥がれ落ちてしまったのだ。
「クマベエにも」
侑子の言葉に反応して、ブレスレットに巻き付く白い糸が踊るようにくるくると回っている。
「そして、ユウキちゃんの“才”にも」
「まさかあんなに苦しめられた自分の“才”に、こんな形で救われるとは思ってなかったよ」
ユウキは穏やかに微笑んだ。
「これで全部、終わったのかな」
「全部って?」
侑子の問いかけに、ユウキが質問を返す。
「私達が見た夢は、これでお仕舞いになったんだと思う?」
天膜の破壊と、ヒノクニの理の崩壊。
その原因は突き止められ、これ以上の綻びを止める措置はできたと言えるのだろう。
「私達はブンノウとシグラが見た夢を、修正するためにあの夢を見たのかな……」
「俺はそっちはただのおまけだと思ってるけど」
ハンドルの上の侑子の手に、褐色の手が重なった。
「おまけ?」
「あの夢は、俺たちを結びつけるために見たものだよ。他の奴らのツイてない運命の、尻拭いのためじゃない」
くしゃりと笑った顔のまま、ユウキは握った侑子の手を持ち上げると、そこにゆっくりとキスを落とした。
「だから終わってないさ。俺たちはこれからもずっと、続いていくんだから」
頷いた侑子の耳に、仲間達の声が聞こえてきた。港町へ戻るのだろう。
「帰ろう、ユーコちゃん」
回転することのないコーヒーカップから、二人は立ち上がった。
「まずは港町まで戻って、できなかったあの夜のコンサートをしよう。ライブハウスは使えないけど、歌う場所はどこでも良いんだ。あの大学の研究員達、みんな無事だったよ」
手を繋いで話すのは、これからの未来の話だ。
「クマベエも元に戻してあげなくちゃ。糸は多分足りないから、新しいのも使わないとダメだけど」
「全く同じクマを作れるの?」
「それは無理だなぁ。あみぐるみって同じに編んでも、一つひとつ違う感じにできちゃうんだよ」
「手作りってそういうものだ。新しいクマベエは、どんな姿になるのか楽しみだね。編み上がったら、また俺が鱗をつけてあげる」
ブレスレットから糸端を伸ばして、クマベエの欠片がくるくると楽しげに踊った。
ぴぃ ぷぅ
そんな脳天気な声が聞こえる気がして、二人は顔を見合わせて笑った。