59.断絶
文字数 2,171文字
ユウキちゃんへ
お花見、どうだった?
こっちの桜は、もう散り始めてる。まだ楽しめるけど、今年は例年通りのお花見をしている人は、見かけないな。
皆散歩ついでに立ち止まって、眺めてるだけだね。
当たり前が当たり前じゃなくなっちゃった。
当たり前に学校に行って、当たり前に誰かと会えて。
当たり前に大きな声で歌って、踊って、叫んで。
全部当たり前じゃないの。
できなくなった途端に、当たり前のことは、何一つ当たり前ではなかったんだって気づくんだよ。
おかしな話だよね。
ユウキちゃんのことや、並行世界のことだってそうだった。
なんで忘れていたんだろう。
歌いたいな。
これから、河原に行ってくる。
緊急事態宣言が出てから、河原を散歩する人が増えて、いつもより人を見かけることも多くなったけど。
川に向かって歌うんだったら、咎める人もいないよね。
ユウキちゃんの歌、歌ってくるよ。
侑子
***
いつものように最後に自分の名を記すと、桜の花びらが片隅に描かれた封筒に、畳んで入れた。
糊付けをして、封筒に住所とユウキの名を書く。一円切手を一枚貼って、クローゼットを開けた。
もう何回も繰り返した動作だったので、きっと目を瞑っても、躓くことなクローゼットの扉を閉めるところまでできるだろう。
「行ってきます」
声が届くはずはないのだが、何となく天井裏に向かって声をかける。
出かける時の、侑子の習慣だった。
***
「偶然」
「ゆうちゃん」
いつもの場所には、先客がいた。
侑子は僅かに空間を開けて、倒木の上に腰掛けた。
「ギターの音が聞こえてたから、もしかしたらと思ったけど」
裕貴が笑った。マスクを外した顔は、久しぶりに見た気がする。
「いいよ、つけなくて。同じ方向向いてれば、大丈夫じゃないかな」
慌ててマスクをつけようとする手を制して、侑子は川面へ顔を向けた。
「歌ってたの?」
「いや、今はギターに集中してた」
「そっか」
「やっぱりここいいよな。あまり人もこないしさ」
「足場悪いもんね」
侑子の言葉通り、この場所は大きな岩が多い。歩き辛いので、あえて散歩コースに選ぶ人が少ないのだ。
「ゆうちゃんは、歌いに来たんだろ」
「うん」
「どうぞ。思う存分歌って。俺合わせるよ。何歌うの?」
裕貴の言葉に甘えて、侑子はいくつかの曲名を彼に告げた。全てユウキの曲だった。
「本当に、好きだよなぁ」
独り言のように呟くと、裕貴は音を紡ぎ始める。
マスクを外した侑子の口から、自由を喜ぶように、伸びやかな音が広がっていった。
***
「課題進んでる?」
「まあまあ。やることないし」
「そうだよねえ。ゲンさんとキクちゃんは元気?」
「うーん……ばあちゃんは、明らかに元気ないかな。元々家にいる時間の方が少ないくらい、ライブハウスで演奏してるか、友達と遊んでいることの方が多かった人だし。じいちゃんはいつも通り。音楽聴いて過ごしてるよ。ゆうちゃんが来れなくなったって、よく愚痴ってるけどな」
「そっかぁ……」
「二人共一応高齢者だから。忘れがちだけど」
「……早く終わればいいのにね」
二人は並んで腰を下ろしていた。マスクをつけての会話は、声に靄がかかったように聞こえてくる。
「終わるさ、そのうち」
裕貴が大きく言い放った。
「来月には学校だって始まるよ。ちょっと春休みが伸びてラッキー! くらいに考えればいいんだ」
笑顔の裕貴が、侑子にはとても眩しく映った。
「野本くんは前向きだね。私はどうしても、暗く考えがちになっちゃってて」
「ゆうちゃんが?」
裕貴が目を丸くする。口元が覆われていても、驚き顔なのが分かった。
「ゆうちゃんっていつも、ポジティブで凄いなって思ってたけど」
「そうかな」
「そうだよ。初めて会った時からそうだった」
「……自分のことって、自分じゃよく分からないな」
「元気出しなよ。折角俺と会えたんだしさ」
トン、と背中を軽く叩かれて、侑子は笑う。
「そうだね。ありがとう」
「明日も同じくらいの時間に来るよ。ゆうちゃんもどう?」
「うん。明日も来る」
「ギター持っておいでよ。俺も歌うからさ、ゆうちゃんが伴奏して」
「オッケー」
立ち上がって歩き出しながら、侑子は再び裕貴に礼を言った。
「ありがとう、野本くん。明日楽しみにしてるね」
***
帰宅してすぐ、侑子は屋根裏に続く蓋を開けた。
ユウキからの返事が届いていなくとも、出かける前に置いた自分の手紙は、なくなっているはずだ。それを確認するためだった。
書いた手紙がなくなっていることの確認――それはすなわち、向こうの世界と確実な繋がりを実感する行為でもあった。侑子にとってそれは、自分の心の生存確認のようなものなのだ。
――え?
だからこそ、侑子の心臓は音を立てて早鐘を打ち始めた。
――なんで?
あってはいけないものが、そこにあった。
――なんで
見間違いでありますように。
願いを込めて、その封筒を手に取って凝視する。
――なんで
数時間前にしたためた手紙が、手の中にあった。
――どうして?
本来なら、この手紙が置いた場所から消滅していることの方が、不可解な現象であることは確かだった。
しかし侑子には、その逆の現象こそが異常であり、受け入れがたい非常識である。
そう、絶対に受け入れられなかった。
「手紙が届かない」
言葉に出すことで、現実が巨大な絶望となって、侑子の脳天を撃ち抜いた。
お花見、どうだった?
こっちの桜は、もう散り始めてる。まだ楽しめるけど、今年は例年通りのお花見をしている人は、見かけないな。
皆散歩ついでに立ち止まって、眺めてるだけだね。
当たり前が当たり前じゃなくなっちゃった。
当たり前に学校に行って、当たり前に誰かと会えて。
当たり前に大きな声で歌って、踊って、叫んで。
全部当たり前じゃないの。
できなくなった途端に、当たり前のことは、何一つ当たり前ではなかったんだって気づくんだよ。
おかしな話だよね。
ユウキちゃんのことや、並行世界のことだってそうだった。
なんで忘れていたんだろう。
歌いたいな。
これから、河原に行ってくる。
緊急事態宣言が出てから、河原を散歩する人が増えて、いつもより人を見かけることも多くなったけど。
川に向かって歌うんだったら、咎める人もいないよね。
ユウキちゃんの歌、歌ってくるよ。
侑子
***
いつものように最後に自分の名を記すと、桜の花びらが片隅に描かれた封筒に、畳んで入れた。
糊付けをして、封筒に住所とユウキの名を書く。一円切手を一枚貼って、クローゼットを開けた。
もう何回も繰り返した動作だったので、きっと目を瞑っても、躓くことなクローゼットの扉を閉めるところまでできるだろう。
「行ってきます」
声が届くはずはないのだが、何となく天井裏に向かって声をかける。
出かける時の、侑子の習慣だった。
***
「偶然」
「ゆうちゃん」
いつもの場所には、先客がいた。
侑子は僅かに空間を開けて、倒木の上に腰掛けた。
「ギターの音が聞こえてたから、もしかしたらと思ったけど」
裕貴が笑った。マスクを外した顔は、久しぶりに見た気がする。
「いいよ、つけなくて。同じ方向向いてれば、大丈夫じゃないかな」
慌ててマスクをつけようとする手を制して、侑子は川面へ顔を向けた。
「歌ってたの?」
「いや、今はギターに集中してた」
「そっか」
「やっぱりここいいよな。あまり人もこないしさ」
「足場悪いもんね」
侑子の言葉通り、この場所は大きな岩が多い。歩き辛いので、あえて散歩コースに選ぶ人が少ないのだ。
「ゆうちゃんは、歌いに来たんだろ」
「うん」
「どうぞ。思う存分歌って。俺合わせるよ。何歌うの?」
裕貴の言葉に甘えて、侑子はいくつかの曲名を彼に告げた。全てユウキの曲だった。
「本当に、好きだよなぁ」
独り言のように呟くと、裕貴は音を紡ぎ始める。
マスクを外した侑子の口から、自由を喜ぶように、伸びやかな音が広がっていった。
***
「課題進んでる?」
「まあまあ。やることないし」
「そうだよねえ。ゲンさんとキクちゃんは元気?」
「うーん……ばあちゃんは、明らかに元気ないかな。元々家にいる時間の方が少ないくらい、ライブハウスで演奏してるか、友達と遊んでいることの方が多かった人だし。じいちゃんはいつも通り。音楽聴いて過ごしてるよ。ゆうちゃんが来れなくなったって、よく愚痴ってるけどな」
「そっかぁ……」
「二人共一応高齢者だから。忘れがちだけど」
「……早く終わればいいのにね」
二人は並んで腰を下ろしていた。マスクをつけての会話は、声に靄がかかったように聞こえてくる。
「終わるさ、そのうち」
裕貴が大きく言い放った。
「来月には学校だって始まるよ。ちょっと春休みが伸びてラッキー! くらいに考えればいいんだ」
笑顔の裕貴が、侑子にはとても眩しく映った。
「野本くんは前向きだね。私はどうしても、暗く考えがちになっちゃってて」
「ゆうちゃんが?」
裕貴が目を丸くする。口元が覆われていても、驚き顔なのが分かった。
「ゆうちゃんっていつも、ポジティブで凄いなって思ってたけど」
「そうかな」
「そうだよ。初めて会った時からそうだった」
「……自分のことって、自分じゃよく分からないな」
「元気出しなよ。折角俺と会えたんだしさ」
トン、と背中を軽く叩かれて、侑子は笑う。
「そうだね。ありがとう」
「明日も同じくらいの時間に来るよ。ゆうちゃんもどう?」
「うん。明日も来る」
「ギター持っておいでよ。俺も歌うからさ、ゆうちゃんが伴奏して」
「オッケー」
立ち上がって歩き出しながら、侑子は再び裕貴に礼を言った。
「ありがとう、野本くん。明日楽しみにしてるね」
***
帰宅してすぐ、侑子は屋根裏に続く蓋を開けた。
ユウキからの返事が届いていなくとも、出かける前に置いた自分の手紙は、なくなっているはずだ。それを確認するためだった。
書いた手紙がなくなっていることの確認――それはすなわち、向こうの世界と確実な繋がりを実感する行為でもあった。侑子にとってそれは、自分の心の生存確認のようなものなのだ。
――え?
だからこそ、侑子の心臓は音を立てて早鐘を打ち始めた。
――なんで?
あってはいけないものが、そこにあった。
――なんで
見間違いでありますように。
願いを込めて、その封筒を手に取って凝視する。
――なんで
数時間前にしたためた手紙が、手の中にあった。
――どうして?
本来なら、この手紙が置いた場所から消滅していることの方が、不可解な現象であることは確かだった。
しかし侑子には、その逆の現象こそが異常であり、受け入れがたい非常識である。
そう、絶対に受け入れられなかった。
「手紙が届かない」
言葉に出すことで、現実が巨大な絶望となって、侑子の脳天を撃ち抜いた。