爪痕②

文字数 1,780文字

「背中で料理しようと思った?」

 自宅に戻る途中で、ジロウの家に寄って着替えを借りようと思った。
卵の直撃を受けたシャツを脱ごうとしていたところに、ユウキの背中に声をかけたのは、スズカだった。

「何となく何があったのか、予想はつくけど」
「何だと思う? 答え合わせしてあげる」

 穏やかな声でユウキは返事した。その言葉を受け取るスズカの顔は、笑っていた。
その笑みは呆れでもなく、同情を向けるものでもない。

 数年前のスズカなら、友人のこんな愚行を真っ当に責めて、止めさせようと躍起になっただろう。
しかし当時のユウキはこんな男ではなかったし、今のスズカは彼を責める気持ちには到底ならなかった。

――とりあえず毎日を生き延びて、形だけでも笑顔を作れれば、それで十分

 それ以上もそれ以下も、求める気になれなかった。
自分にも他者にも。

「そうねぇ。昨夜ステージが終わった後、女の子と並んで帰ってたって、ハルカから聞いた。最近よくユウキのこと待ってる子。可愛い顔してて、スタイルも良くて……こう、いかにもモテそうな子だったよね」

 悪戯そうに笑うスズカは、無意識に腹を擦っていた。そこはまだ膨らんでいるように見えないが、彼女は妊婦だった。

「そこから推測するに、また女の子を一人敵に回しちゃった感じ?」
「正解。さすがだな」
「何、さすがって。全然嬉しくないから」

 吹き出したスズカは、ユウキの肩を小突いた。

「……脱いだらそこ置いといていいよ。洗ってあげる」
「いいよ。自分でできる」

 遠慮したユウキの手から、スズカはシャツを奪った。

「いいから。今日調子良いの。少し働きたい」

 そう言いながらスズカは朗らかな顔をしているが、頬がこけている。ユウキは肩を落とした。

「調子いいなら、何か食ったら」
「ダメダメ。食べ物の話しないで。想像するだけでダメなの」

 猛烈に言葉を止められた。

「知らなかったよ。悪阻(つわり)ってそんなにキツイもんなの」
「私も知らなかったよ。リリーさんとか、全然なかったじゃない」

 聞いてないよーと漏らすスズカは、洗面器に水を張り始めた。

蛇口から水が注がれる音がする。
この辺りの上下水道設備は、ようやく復旧したばかりだった。一月前に起きた地震で、また破損が生じたのだ。

「……ウッ、やっぱダメかも……卵と水の匂い、ダメだ。ゴメン」
 
 突然口を抑えてうめき始めたスズカに、ユウキが狼狽え出す前に、彼女はその場所を足早に後にした。

 スズカの第一子の妊娠が発覚したのは、三ヶ月前。

彼女と夫のサクヤは、二年前からこの場所に住んでいた。


***


 二年前。
暖かい春の日だった。
王都を直撃したその地震は、甚大な被害を残していった。

 満開の桜の木々がいくつも根本から折れ、瓦礫とピンクの花弁が散らばった市街地は、地獄の如く混沌としていた。
多数の家屋が倒壊し、多くの人々が家族や友人を失ったのだ。

 スズカの実家は、元の姿を留めること無く焼き潰れていた。地震の後に発生した、大規模火災に飲み込まれたのだ。
彼女の両親と妹の姿が見つかることは、遂になかった。


***


 洗濯板にシャツを擦り付ける音が、洗面所に響いた。

蝉の鳴き声が騒がしい。

窓を開け放ったその場所に、湿った夏の匂いと石鹸の香りが立ち込めている。

「こんなもんか」

 すすぎ終えたシャツを固く絞ると、パンと音を立てて広げる。

じんわりと額に汗が滲んでいた。ユウキの指先が、長い前髪を掻き上げた。

 洗濯板と桶が常備されている洗面所から、屋外へ繋がるドアがある。すぐに洗濯物を外干しできるように、そのようにジロウが設計したのだ。

 かつてジロウの屋敷があった土地には、あの時の家屋よりも随分と小型化した集合住宅が複数建っていた。今ユウキがシャツを手洗いしていた住宅も、その中の一つである。

 二年前の地震で、ジロウの屋敷は倒壊こそしなかったものの、至るところにヒビが走り、そのまま居住を続けるには危険だと判断されたのだ。

ジロウの決断は迅速だった。
土地を一旦更地にし――家庭菜園や東屋、庭園も含めて――集合住宅を新たに建設し、住む場所を失った人々に提供することを決めたのだった。

 スズカとサクヤ夫婦の入居は、一番に決まった。
彼女達はジロウとノマの住む家屋に住んでいる。

「暑いな」

 あっという間に乾きそうだ。
ユウキは空を仰ぎ見ながら呟いた。

 雲ひとつない、鮮やかな夏の空だった。
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