第229話中村雅代の思い 祐の本気のピアノ

文字数 1,343文字

私、中村雅代にとって、祐君は「まどろっこしい」弟子。
本当はもっと弾けるのに、自分を隠すのが気に入らない。
「プロになる、ならない」は関係ない。
祐君が、自分自身を抑え込んでいるのが嫌だ。
だから、ついつい口調もきつくなった。
器用なタイプと思う。
でも、それだけではだめ。
もっと自分を解放して、主張することも必要。
祐君には、それが欠けている。(おそらく、お母様の彰子さんが厳し過ぎた、と思う)

でも、怒っているうちに、可愛くなって来た。
本当に美少年と思う。
文句をつけようがないくらいに整っている。
そのまま、ファッション雑誌のモデルでも通用する。(万事に控え目な子だから嫌がると思うけれど)
それと、実は娘の美里(17歳)も、祐君のファンだ。
祐君が東京に来たと聞いて、逢いたがっている。(音大受験を理由に、今は抑えている)

せめて、私のリサイタルで連弾くらいは、いいかなと思ったから、声をかけてみた。
また、そこで「遠慮顏」になったので、気に入らない。
考え込まないで、とにかく真面目に練習して弾いてみて欲しいと思う。
古文だけに封じ込めたくない、それが私の本音なのだ。

祐君は、ずっと考えて、口を開いた。
「とにかく、練習不足は認めます」
「僕も、字だけの世界は、嫌だなとは思っていたのは、事実です」
「やるだけは、やってみます」

私、中村雅代は、ホッとした。(本当に、まどろっこしかったから)
「でね、バッハのパルティータ弾いて」
「楽譜持って来た」
実は、私がリサイタルで弾く曲。
祐君なりの解釈を聴きたかった。(かつてレッスンで弾かせたこともあるから)

祐君は、ためらわなかった。(あれ?と言う程素直だった)
楽譜を持って、マスターに会釈、ピアノの前に座り、深呼吸。
「バッハのパルティータ」を弾き始めた。

少し騒がしかった店内が、弾き出しから静まった。
全員が、祐君のピアノに注目した。
テンポは、ゆっくり目。
一音一音丁寧に弾く。(祐君らしい丁寧さだ)
実になめらかに弾く。
音もまろやか、もっと良質なピアノで弾かせたいと思う。
リズムは正確、歌を歌うようなメロディの運び方。
私の演奏の方が、「アク」があると思う。
もう少し、無理やりにでも、メリハリをつけるから。

「でも、こういうバッハもいい」と思った。
演奏家のエゴのためでなく、作曲家のタクラミでもなく、五線譜上の音と向き合って祐君の感じたように弾いている感じ。
曲が進むにつれて、祐君の顔が赤くなった。(ゾーンに入ったような感じ)
演奏も、グングン私の心に響き出した。
この私も、素直に感心した。
「やればできるじゃない・・・」
「前より、表現も深くなった」
「このまま、上野の小ホールで弾かせたい」

曲の後半に入った。
ゾーンに入った祐君の演奏は、私の心を揺さぶった。
「うわ・・・哲学的な・・・深い響き」
「バッハって、こんな響きも書いてあったのか」
ついつい、同じような演奏に陥りがちな自分を反省した。

その深い響きに、私が圧倒され始めた頃、曲の最終局面に入った。
祐君のピアノの音が、変わった。
ライブバーのピアノなのに、どっしりとしたオルガンのような厳格さまで、感じてしまう。

「すごいよ、祐君」
「こんなのを隠していたの?」
「本当に、この子は、どこまでの才能なの?」

祐君は、静かな音で、曲を締めくくった。
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