第283話平井恵子の思いなど

文字数 1,568文字

私、平井恵子は、祐君の生演奏を聴き、本当に感動してしまった。
弟子の風岡春奈から、逐一様子を聞いてはいたけれど、予想をはるかに超えていた。
Tフィルの常任指揮者のジャン、ヴァイオリン奏者のジュリア、コンクール優勝者村越さんとセッションをして、完璧に調和、時には美味甘味あふれるソロも。
これなら、音楽界から引っ張られるのも、不自然ではない。(風岡春奈は、それを心配しているのだが)

ただ、私は、それほど心配していない。
祐君は、古文も好きで、音楽も好きなのである。
決して、人を裏切るタイプではない。(それ以上に自分を責め過ぎる懸念はあるが)
それに、音楽志向であれば、とっくに音大を目指していたはず。
そうではないのだから、何も心配する必要はない。

むしろ、風岡春奈の頑なに(伝統的古文学者に通じるような)、祐君に無理やり迫ることが心配。(おそらく、風岡春奈の祐君の対する恋心、独占欲求も影響している)
そして、それが、祐君に過大な重圧をかけて、苦しめること。
幸いなのは、純子さんとか、真由美さんのような、「もののわかった」女性が、祐君の周囲にいて、風岡春奈の暴走を抑えてくれていること。(彼女たちがいなかったら、祐君は、少々不安、風岡春奈にかなり苦しんでいたことだろう)

さて、私は、祐君の、お昼の演奏の後、あちこちに連絡した。

森田彰子さん(祐君のお母様)
「え・・・今日も、あのバーで?」
「平井先生・・・申し訳ありません」
「下手な演奏を・・・何とお詫び申し上げていいのやら」
(相変わらず、息子を決して認めない母と思う)
(ディすることばかり、これでは祐君も心を痛めていたと思う)

「いえ、もう、すごい演奏でした」
「並み居るトッププロに負けていません、完全調和の世界」
「祐君の、最後のモーツァルトは天使の演奏で」

森田彰子さんは、当惑?支離滅裂になった。
「そうですか・・・もう、そんなに褒めないでください」
「私からも、祐に申しつけておきます」
「大学の勉強も、大先生からの分不相応のお仕事もいただいているのに、音楽などと」
(結局、息子を叱るような雰囲気)

「そんなことは、絶対にやめてください」
「古文も、かなり頑張っていますよ、もう、出版社もすごく乗り気です」
「音楽は、かっこうの気分転換になっているのでは?」
「祐君を叱らないでください、お願いします」

森田彰子さんが、相変わらず「はぁ・・・」と煮え切らないので、私は電話を終えた。(堂々巡りになりそうだったから)

次に、秋山康大先生にも、連絡。
秋山先生は、朗らかな声。
「へえ・・・そうですか・・・それは、素晴らしい」
「文だけではなく、音楽の才、いいことですよ」
「例えば、鴨長明も音楽の才に長けて」
「そもそも、日本は昔から音楽もできて、文化人ですよ」
「源氏でも、音楽や踊りは、たくさん出て来ますよ」
「いいですねえ・・・祐君・・・」
「家内にも、その話をしますよ」
「家内は祐君に恋をしておりますから」

秋山先生らしい、大らかな反応だった。
私も、うれしかった。
確かに、文も音楽もできるのが、古代貴族、文化人のたしなみの一つ。
その意味で、「古文限定」などは、実に馬鹿げた話なのである。

そこで思った。
旧弊な伝統至上主義者が和歌研究者に多い。
その中で、ピアノなどの音楽ができる人が、何人いたのだろうかと。
・・・思いあたらない。
古文の文法には、「必要以上」にうるさい。
そして、そればかりに「拘泥」して、歌の本質、こころを外したガチガチの現代語訳、解釈ばかり。
彼らにとって「歌」は「歌」でなく、「文字の陳列」に過ぎない。
私は、祐君を思った。
古文の文法を詳しく理解しながら、なお、歌人が歌に託した「生きたこころ」を表現できる人。

あとは・・・古文学会の、先輩後輩の「序列至上主義」、それが、敵になるかもしれない、そんな、不安も湧いて来ている。
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