Oゲージ
文字数 1,328文字
幼稚園児の頃、私の家のお出かけといえば、行き先はデパートだった。
つまりデパートへ行くとは、ただ買い物をするというだけではなく、きれいな服を着て出かける晴れがましい娯楽という面もあったわけ。
私は母親に連れられてゆくのだが、何かは知らないが、母には買うべきものがあったのだろう。
しかしながら、幼稚園児の手を引きながら売り場を歩くのは面倒である。
だから母はまず、私をおもちゃ売り場へ連れて行った。
すると私は、さっそくショーケースの前にかがみこんで鉄道模型などを眺め始めるのだが、
「この売り場を離れるのではないよ」
と言い置いて、母はどこかへ行ってしまう。
おもちゃ売り場は『子供預り所』ではないのだが、私自身、そうされるのが苦痛だった記憶はない。
とても買ってはもらえないと分かっていても、鉄道模型を眺めるのは楽しく、少なくとも母に連れられて、デパートの売り場を延々歩かされるよりはマシだったろう。
お若い方々には信じられないかもしれないが、当時まだ、Nゲージはカケラも存在しなかった。
ではHOゲージの時代だったのかというと、そうでもなく、あの頃はまだOゲージが主力だった。
(縮尺1/45。線路幅は32ミリ。交流3線式)
当時まだ、デパートの売り場にはHOゲージすら存在せず、並んでいるのはOゲージばかりだったような気がするが、もちろん私の思い違いかもしれず、実は当時すでに、OとHOは売り場を分け合っていたのかもしれない。
そうでないと、そのたった数年のちにはOゲージが影を潜め、HOばかりが売られるようになる変化があまりに急激すぎるような気がする。
それはそうと、当時のOゲージが、
「現代の模型に勝っている」
という言い方でよいかどうかは別にして、かつてのOゲージには、ある特徴があった。
Oゲージの電気機関車にも当然ながらガイシがついていて、屋根の上でパンタグラフを支えている。
当時のOゲージではこのガイシが、本当に白い陶器で作られていたのだ。
おそらく現代のどのメーカーのどのサイズの模型にも、こんなことはないと思う。
また、リアリティとは反対のことだけれど、当時のOゲージは交流モーターで走っていたから、パワーパックのスイッチを切り替えて列車の前進/後進を切り替えることはできなかった。
マグネットモーターではなくて、直巻モーターだから。
しかも線路には交流電気を流している。
当時はまだ、パワーパックに内蔵できるほど小さな整流器が存在しなかったのだろう。
ついでだか、HOゲージの時代になっても、ダイオードなんてものはまだ普及せず、整流にはセレン整流器を用いた。
セレン整流器:
(四角っぽい形をして、ダイオードよりもずっと大きい。たぶんNゲージ車両には収まらない。初期のNゲージ車両のヘッドライトが点灯しなかったのは、このせいかも)
それでOゲージ車両の前後進の切り替えだけれど、ロコやモハの車体の横にヒョイとスイッチのレバーが飛び出していて、それを手で動かして走る方向を決めた。
連結器は、モハであっても自動連結器がついているが、鋳物製のコロンとしたやつなので、車両同士をぶつけても自動連結はしてくれない。
今より50年以上昔の物語。