大垣夜行
文字数 682文字
あの列車には当時まだ、
「大垣夜行」
という名はついていなかったと思う。
〇〇〇Mと列車番号で呼ぶか(数字は忘れた)、大垣発東京行きと言っていたかもしれない。
私が初めて乗車したのは大学生の春休みだったか、あまり混んではいなかった。
神戸からどうやって行ったのかは忘れたが、とにかく165系の車上の人になった。
それが真夜中を過ぎ、横浜あたりで発見したのは、
「この列車は、横浜で終電を逃してしまった人たちの救済列車になっている」
ということ。
いかにも”飲んでいた”という感じの人が車内に何人も目に付く。午前様で東京入り。
私が下車したのは鶴見で、時間は確か4時40分だったように思う。
一番電車に乗るにもまだ少し早く、鶴見線ホームは薄暗かった。
私が小学生の頃まで、大阪緩行線といえば73系の天下で、103系がやってくるのはもう少し後のこと。
だからある時期まで、73系など珍しくもなかったのだが、いなくなるとなれば、あっという間。
それゆえ、鶴見線における73系との再会は、
「お久しぶり」
の一言なのだが、その後のことは自分でも意外だった。
だってさ、3連とは言え(大阪緩行線は7連)、73系がボンボンやってくるんだもん。
まるで現実とは思えず、あまりの出来事に脳がついていかない景色。
(あの当時、弁天橋電車区はツリカケ率100パーセントだったと思う)
あまりに数が多すぎて圧倒されるみたいな感じ。分かります?
結局、ろくに写真も撮らずに、私は引き揚げてしまった。
「次回こそはちゃんと腰をすえて、もう一度来ればいいや…」
と思いつつ、そのままになってしまった。