文学
文字数 1,356文字
自慢じゃありませんが、いわゆる名作文学というものに縁がなく、私はあまり読んでいない。
ところがなぜか、「坊ちゃん」だけは読んだことがある。
四国の松山を舞台にした物語で、坊ちゃん列車という言葉のもとになった作品。
あの列車は伊予鉄道のことらしいけれど、私が言いたいのはそうではなく、読んだ時からずっと疑問に思っているのだが、「坊ちゃん」のラスト近くの一行に、
(学校を退職して東京へ帰った主人公は)
『その後ある人の周旋で街鉄の技師になった。』
とあること。(青空文庫より 二重カッコ含まず)
これなんですよ。
周旋には「しゅうせん」とルビが入る。斡旋(あっせん)と同じような意味。
問題は街鉄のほうで、ルビは「がいてつ」
これはきっと、東京市街鉄道の意味であろう。略してガイテツ。
明治36年から明治39年まで存在した会社で、他社と合併して東京鉄道となり、後に東京市電となる(→東京都電)。
調べてみたが、「街鉄」も「東京市街鉄道」も私の電子辞書には乗っていない単語。
非常に奇妙な気がするのは、小説を書くときに、そんなマイナーな単語を用いたりするものだろうか、ということ。
「街鉄」という言葉について、坊ちゃん作中に説明は見られない。
例えば私が小説を書くとして、一地方でしか知られていない鉄道会社名を、説明も何もなしでポンと出すだろうかということ。
ある地方に雨宮市という町が存在し、そこに雨宮電鉄という鉄道会社があったとして、
『〇〇は雨電に職を得た』
と書いたとしても、きっと雨宮市とその周辺に住む人々しか、雨電という言葉を了解しないであろう。
ところが街鉄。
読者は、東京在住者とは限らない。
なのに坊ちゃんを読んだ読者はみな、疑問を持たなかったのだろうか。街鉄という言葉を一瞬で了解したのだろうか。
私にはそうは思えない。
文学者たちの間でこの問題がどう考えられているのか、多少は興味を感じております。
続いて、いつもの通り私の無謀な結論でございます。
夏目漱石は、明治から大正にかけて活躍した人。特に「坊ちゃん」は、明治39年に発表されている。
そして街鉄という言葉を、これまで誰も問題視/疑問視してこなかった。
昭和や平成や令和の時代に疑問視しなかったのは、分からなくはない。
昔の本だし、分からない単語の一つや二つがあっても、という気分か。
また、私のヒネコびた心は、
「肖像画が紙幣に印刷される大作家の作品に、疑問を持たれるような点があるはずがない」
と自主規制してしまったかもしれない。
あるいは、もしかしたら「街鉄」という単語は、本当に日常的な単語だったのかもしれない。
「坊ちゃん」が掲載されたホトトギスという雑誌は、販売エリアがどれほど大きかったのだろう?
私は文壇のことなど何一つ知らずに言っているのだが、もしかしたらホトトギスの販売エリアは、「街鉄」という言葉が通じるエリアと同等の広さしかなかったのではなかろうか。
中学生や高校生の時代、日本文学の作品や作者について、国語の授業でいろいろ習わされてきたけれど、もしかしたら昔の日本の文壇って、東京の市街地と同じだけの広さしかなかったのかもしれないよ。
だからこそ、突然作中に現れる「街鉄」という言葉に誰も疑問を持たなかったのかも…。