車内販売
文字数 1,002文字
冬期にはずっと閉めたまま。
クーラーがあるのだから、夏にも窓を開ける必要はない。
考えてみれば、なぜオハ12系やキハ65はユニット窓になっているのだろう。
もしかしたら、車体にユニット窓を設置するのも、固定窓を設置するのも、コストに大差はなかったのかもしれない。
153系や165系がユニット窓だったのは理解できる。
こいつらは新造当時、まだ非冷房だったのだから。
窓の開閉が不可能になったのは、きっと151系からだろうけど、おかげで不便になったことがある。
列車が駅に停車した時、駅弁や茶を買いにくくなったのだ。
あの時代の大きな駅のホームと言えば、いつも弁当売りの人がいて、首から大きな木箱をぶら下げ、弁当を高く積み上げて売って歩くのは普通の光景だった。
例えば広島駅の場合、茶や弁当以外にも、
「ミカン、クリ。ミカン、クリ。広島もーち」
と独特の節をつけて客を呼び込んでいた。
これを買いたい人は窓を開け、「こっちこっち」と窓越しに売り買いをする。
発車ベルが鳴ろうが、列車が動き始めようがギリギリまで商売が可能で、父から聞いた話だが、列車が動き始めてから紙幣をひらひらさせて、売る人をわざと走らせるという悪戯まであったそうだ。
旧型客車の時代はいい。
ところがそこへ、窓の開かない151系がやってくる。
するとどうなる?
短い停車時間中に弁当を買うのが難しくなる。
私の想像だが、車内販売とはこの時に始まったのかもしれない。
その後、急行はともかく特急はどんどん固定窓化されていったから、ホーム上の弁当販売は、すたれていったかもしれない。
さて、ここで無謀な結論であります。
新造時からクーラーのついているオハ12やキハ65でもユニット窓が採用されたのは、
「特急とは違い、当時の急行列車には原則として車内販売がなかったから」
ではないかと愚考いたします。
(用意よくセルフ反論)
ところが自分で書いてしまうけれど、上記の説はたぶん間違っている。
昭和29年制作の映画「ツバメを動かすひとたち」の中に、一瞬チラリとではあるけど、車内販売の様子が写る。
少なくともスハ44の時代には、すでに車内販売が存在したことになる。
(おまけ)
そういえば一度、117系の新快速で車内販売をしているのを見かけたことがあるけれど、あれはきっと間合いというか、営業所から特急始発駅への回送途中だったのだろうと思っている。