モハ80

文字数 954文字

 国鉄末期、中央西線を塩尻から西へ、普通列車で下ってくると、中津川を過ぎたところで、車種が115系から113系に変わる。
 車窓の風景に大きな差は感じられなくても、

「ああ、山から下りてきたのだなあ」

 という感慨にふけったのは、私だけですかね?

 昭和時代には、駅で時間をつぶすのに苦労することは、今よりも少なかったかもしれない。
 私も高校3年になって(正確には浪人生だったが)、ある大学を受験するために名古屋へ行ったことがある。
 前日から名古屋入りして、一泊して受験。
 二日目の午後遅くには帰宅するはずが、急ぐ用事もなく、ホームできしめんを食べつつ、見なれない町の夕暮れラッシュをもう少し眺めることに決めた。
 モハ80系の編成が何分かおきにボンボン発車してゆくのだから、これを見ない法はない。 
 当時、あのあたりの80系はすべて4連で、クハ不足を補うためにサハからの改造が進み、

「編成の両端がクハ85ということも珍しくなかった」

 と本には書いてあるが、確かにそんなふうだった気もする。

 要するにモハ80というのは、スハ43の車体にモーターを取り付けて電動車化するという堅実なコンセプトだったのだろう。
 クハ86(初期車)の顔だって、既存のクハユニ56そのままだしね。
 とはいえ、80系電車に関わる全てが既存だったというのではなく、

・80系の屋根は鉄だし
(スハ43の屋根は木とカンバス)

・ブレーキは電磁弁を追加して応答をよくしたもの
(スハ43は通常の空気ブレーキ)

・80系の台枠は中梁を簡素化し、多少の軽量化を図っている。
(スハ43は従来通り)

 というように、新機軸も多少は採用している。
 いくら古い車両でも、デビュー時にはそれなりに輝くところがあったわけ。


「並」だ「特」だといっても、寿司の話ではなく…

 戦前の国鉄では、ロザはみな「並ロ」だったけれど、昭和20年代になって「特ロ」が登場し、その後の客車は「特ロ」ばかりになって、並ロ客車の製造は打ち切られてしまう。

並ロ:固定クロスシート
特ロ:リクライニングシート

 だけど電車に目を向けると、同時代製であるはずのサロ85が、なぜ並ロで登場したのだろう。
 走行距離が短かったからか?(東京・沼津間126キロ)
 まあ、そのリベンジは151系で果たしたとは言えるけれど。

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