第177話 桜花恋歌 その35

文字数 700文字

老樹であり、大木であった。
幹の太さは6m有り。表皮に苔さえはえ、生きてきた歳月の長さを物語る。
大木のすぐそばに、かやぶき屋根を有した古民家があり、えも言われる風情を醸し出していた。

春ではない。昼の熱気は去ったとは言え、到底涼しいとは言えない夏風が頬を撫でていく。
500年の古樹であり、今は花開く春ではないのに枝垂(しだ)れた枝々に薄紅(うすくれない)の小さな花がたわわに咲いている。

「狂い咲きか」

桜の大木を前にして佐藤仁は呟いた。紅い月が天空に在り不気味さを演出して。
いかにも何かが起こりそうな雰囲気を醸し出していて。

「全く、出来すぎだろ。なんだよ。この舞台設定」

悪態をついて傍らの高森要を見ると彼はやたらと周囲を気にしていた。

「どうした。何か気になる事でも」
「……いえ、その」

心の中に抱いた違和感。その根源を探る術を持たず、打ち消すように言われた言葉を否定する。
高森要が感じた違和感を実の所、佐藤仁も感じていた。こめかみにピリリと信号が走る。

ちらりと古民家の露台に眼をやるが、そこに潜む者が自分たちを害する者ではない事を悟り。
彼は軽く苦笑した。

『全く、先生は』
任せると言いながら、口ばっかりなんだから……。
そう思ったが言葉にするのをやめた。どうせ、すぐにばれる事だ。
何かマズイことがおこればいち早く助けに入るつもりなんだろう。
高森要に教えてやれば、安心するのは眼に見えていたがあいにく、佐藤仁は教えてやるつもりなど毛頭なかった。
今教えれば、自分で対処しようする気持ちを挫くことになる。
彼に決意させることが自分の使命だと心得ていた。
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