第170話 桜花恋歌 その29

文字数 763文字

そこには、着物を着た能面のように白い女が立っていた。

『お前が、たかもり……かなめか……』

地の底から響いてくるような重厚感を帯びて声が響いた。

『……お前が、奪った……我が背の君を……』

恐怖のあまり声も出せない。
ただ目を見開いて相手を見つめるしかない。
すぐそばに立つ先輩も泉も青ざめた顔でただ立ったまま女を見つめている。

『おまえが、おまえが、お前がああぁぁぁあああっつーーーー』
部屋中に狂気に満ちた女の声が響く。

金縛りにあってこわばる手足。
指一本でさえピクリとも動かない。
女の手が先輩を抱き寄せた。
先輩はだらりと両手をさげたまま、なすがままになる。
泉は、口の中で何かを唱えて。ふいに動いた。
テーブルの下にしゃがんで自分のカバンの中からお札を取り出した。

「いやよ。させない。破邪。悪鬼退散!」
泉はそう叫ぶと持っていたお札を女に投げつけた。

「ぎゃあああぁぁあああっ」
先輩を手放し、悲鳴とともに女は消えた。
くずおれて、床に転がった体。

部屋は静けさを取り戻し、異様な紅さが消えた。
女の立っていた壁を見ると額縁に入った一枚の写真があった。
一見して巨木とわかるアングルで取られたあの枝垂れ桜だった。

「先輩!」
泉は先輩に駆け寄った。
先輩の眼は開いていた。
だが、虚空を見つめる瞳はなんの感情も示さない。
呼吸(いき)はある。
しかし呼びかけに答えない。
体を揺さぶった。
弛緩した体は全く力が入らずガクガクとゆれた。

泉は両手で顔を(おお)った。

「どうしよう。高森君、先輩、……答えないよ」
「……。」
「やだよ。……こんなのやだよ。一体どうしたらいいの?」
問いかける泉に答える術を持たない。

泣きじゃくる泉の肩をだいた。
俺にはどうする事もできなかった。
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