2020/12/07

文字数 1,653文字

一つ前の記事が酔いどれの僕が書いたうわごとです。お気になさらず。なのだが。ひとによっては、いや、おおくのひとが、その「後に残るのが最悪だ」と感じるわけです。文章は残りますからねぇ。いや、サイトなくなったら僕の文章は消滅したも同然ですし、これまで何回も全削除されまくりの人生で、残らなくていいものばかり残ってました。結果、最悪な人物像があって、現実で酷い目に遭ってきました。僕は早く死んだ方がいい人間だと思われています、世間に。何度も病院送りにされています。ここまで書くと「お? 妄想だな! 入院だ! ザマァ!!」となるわけですよ。酷い人はたくさんいますね。社会的弱者の僕をいじめてなにか自分が偉くなったような気でもするのでしょうか。するのでしょうか? ねぇ? と、ぶち切れても仕方ないので、この辺にしときます。隠す必要がないので書きますが、僕は学生時代に、ミッションスクールに通う女性から、その子の引いた赤ペンぎっしりの新共同訳聖書をもらって、その後、何十年も枕元に聖書を置いていました。ぱらぱらページをめくると、特に福音書は、笑っちゃうくらいにその通りだなぁ、と思うことばかり書いてあって、痛快でした。モーセ五書は最初に(つーか最初からだから当然なんだけどね)通読していて、まあ、なんていうか、知り合いのアシェラさんは「旧約の方が面白いよ」と言うけど、大学の講義でちょっと聴いた「福音書でぐぐっと面白くなる」というのもわかるし、えーっと、つまり、歴史書と〈禁止の図式〉であるところの旧約と、その名の通りの福音書である新約、どちらも好きなわけです。なのですが、実はこのNOVEL DAYSに僕が来る少し前に、僕は酷い目に遭って、その貰った聖書を手放すことになってしまいました。手放す、というか、捨てられてしまったのです。で、思えばそれは2017年のことで、2018年に、新共同訳は、新しいのを出したのですよ。で、今、金銭的余裕が全くないのですが、その新しいのを取り寄せています。枕元にずーっと置いていた本を、取り戻す。手放したときの罪悪感とずっと戦ってきましたが、数日後には、安心出来そうです。例えば仏教の経典ていうのは、のちにいくつもの解釈の経典を、様々な宗派が様々に持っているので、僕にはちょっとわからない、本当は。神道にしても、例えば神社18系統にだって、有名な八幡だって、源氏が推してたのがかなり最初に歴史上に出てきて、記紀には出てこなかったはず。そういう風にいまいち文献があまりないのを祀ってることが多いし、教派神道は神がかり(『百瀬探偵結社綺譚』に「帰神法」の話が少し出てくるし、今後出す予定です)の系譜が多い(キリスト系や仏教系の新興なんたらも神がかり教祖が多いです)し、そうじゃなくても記紀、特に古事記をグランドセオリーにしよう、ってのが一方にある。グランドセオリーって、マルクス『資本論』やフロイトの理論とかね、ああいう奴。そういうことじゃなくて、聖書は聖書で、新共同訳はミッションスクールに多く採用されている本でもあるしさすがに哲学書などでテーマになることからなじみ深いので、これを読んでおけばいいや、というのがあって。……そんなこんなだから、僕、お墓に行って花を刺してたら「あら、破門されたんじゃなかったかしら?」と近所だかなんだかのおばちゃんに言われました。どーでもいいよ、そんなの。僕のうちの宗派は、フランスのポスト構造主義哲学者ジル・ドゥルーズも参照している本を書いているので、読めば読んだで繋がるんだよね。だから、問題ないの。僕はそう思っている。だいたい、そのおばちゃん、只管打坐ってものすら知らないんだろうな、偉そうに罵倒なんかしちゃってさ。話が逸れに逸れてしまったけど、もう一度、読み直そうと思ってる、聖書。ぱらぱらめくる感じで、また枕元に置ければいいな、と。そういう、敬虔さとはまた別の、そういうお話でした。
2020/12/07 19:21 コメント(-)| 随想遊戯
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