書くことがなかったので

文字数 1,766文字

クラゲの話を貼り付けておく。

 岩井はいつも部屋の隅っこに置いてある、小さな水槽の前で小さく体を丸めていた。水槽には、いかにもプラスチック製の派手な色の水草と、どこで拾ってきたのか白いサンゴの死骸と、そうして時折、思い出した様に傘を広げたり窄めたりする、小さなクラゲがいた。岩井はそれを、じっと眺めていた。
 外掛けのフィルターは二十四時間、絶えず水を吸い込み、吐き出し口からは二十四時間、絶えずチョロチョロと小さな滝が流れ出し、僕はその音にイライラさせられた。特に深夜、ふと目が覚めると、その音が耳について寝られないのだ。それでも僕は、岩井の為に我慢した。
 仕事を辞めて来た。そう岩井が言ったのは、狭いテーブルを挟んで夕食を食べていた時のことだ。岩井が以前から、職場の人間関係に悩んでいたのは知っていた。詳しい事が聞けなかったのは、岩井が話したがらないからだった。朝起きるのが辛そうだったし、食欲も湧かないのか、食べる事に頓着せず、岩井は少しずつ痩せていっていた。それに、口数が減り、岩井はぼんやりする事が多くなっていた。そんなものだから、僕は岩井が仕事を辞めて来た。と言った時、少しばかりほっとした。
「ごめんな」
 自分が会社を辞めたことで、僕に迷惑をかけるとでも考えたのか、岩井は謝罪の言葉を口にした。確かに、このご時世、すぐに仕事が見つかるという確証はなかったし、僕は岩井を養ってやれるだけの甲斐性もない。折半している家賃の事や、生活のことが気にならないと言えば嘘になるけれど、岩井が少しでも楽になれるなら、それでいいと思っていた。
「早く、いいとこ見つかるといいな」
 そんな事は言ったかも知れない。
 ただ、それ以上は何も言わなかった。
 僕らが一緒に暮らし始めたのは、大学四年の事だった。岩井の暮らしたアパートの住人が、火事を出したのがその発端だ。油の入った天ぷら鍋を火にかけたまま、眠ってしまったのだ。住人は火が大きく回る前に、偶然通りかかった近所の人に助けられ、死人は出なかったが、アパートは全焼。しばらくは友人の部屋を転々としていた岩井だったけれど、そのうち、岩井は僕の部屋に入り浸る様になった。理由はそう複雑じゃない。友人の中で、彼女が居ない一人暮らしは僕だけだったからだ。
 大学を卒業して、社会人になっても出ていこうとしない岩井に、なぜ出ていかないのかを聞いたら「おまえといるの、楽だし」と笑った。それから岩井はずっと、僕の部屋に居座った。
 嫌がる理由はなかった。
 僕は岩井が好きだったからだ。もちろん、その事を岩井は知らない。僕は自分の気持ちを伝える気は無かったし、岩井には知られたくも無かった。側に居られるなら、その理由なんてどうでも良かった。
「クラゲって、死んだら水になるらしいぜ。知ってた?」
 本当か嘘か、岩井はクラゲを買って帰った日、そう言った。へぇ、と感心してやると「そうやって死にたくない?誰にも迷惑かかんないし」
 思えば、岩井はあの頃から、少しずつ、心を蝕まれていたのかも知れない。
 今日、仕事から戻ると、岩井の姿がどこにも見当たらなかった。岩井のスニーカーはきちんと揃えて置いてあったし、岩井の傘は玄関に立て掛けられたままだった。明かりの消えた寝室を覗いてみたけど、もちろん岩井はいなかった。一緒に暮らしていたのに、岩井がどこへ行ったのかも想像できなくて、僕は自分の間抜けさに呆れた。
 リビングの青いLEDライトの水槽は、相変わらずチョロチョロと音を立てていた。うるさいな。そう思って、水槽に目をやると、クラゲがいない事に気がついた。近づいて、よく見てみた。小さな滝が作った気泡が水面に浮かんでは弾け、また浮かんでは弾け、かき混ぜられる青い水の中に、やっぱりクラゲは見当たらない。水槽にはガラスの板で蓋がしてあった、逃げだすなんてありえない。
「岩井…」
 僕はもう一度、寝室を覗いた。今度は灯りをちゃんとつけて。部屋には僕のベッドと、その足元に岩井の布団があった。
「ウソ……」
 僕は思わず声を漏らした。岩井の布団は何故かぐっしょりと濡れていた。布団から染み出した水分が、クッションフロアの床の隅に水溜りを作っていて、ここが酷い欠陥住宅だって事を知らされたと同時に、僕は岩井が自分の望みを叶えた事を理解した。
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