第310話

文字数 828文字

 しかし柳美里といい池田晶子といい、ハッキリ物を書くなあ!
 下田治美も、思想的なものは何も書いていなかったが、その潔い書き方が大好きだった。三人しか知らないが、女性はハッキリした物言いをする気がする。

 池田晶子は「私には個人の意見というようなものはない」と言った。
 客観的にしかなれなくなった、という意味かと思ったが、先日、ある人と話をしていて、
「それはもうあらゆる他人の意見を取り入れて、自分の意見はすべて借り物であるという意味でしょうか」
 と言われた。

 ああそうか、そういう見方もあるのかと思った。

「学者は本をあちこちひっくり返して調べるだけで、しまいには自ら考える能力をすっかりなくしてしまう。
 本をひっくり返していない時、彼は何も考えていない。学者の場合は考えるといっても、何かの刺激(── 本で読んだ思想)に答えているだけである。
 結局のところ、何かにただ反応しているだけのことだ。
 学者はすでに誰かが考えたことに対して肯定(ヤー)だと言ったり否定(ナイン)だと言ったりする。
 つまり批評する、そのことに力のすべてを使い果たしてしまい── 自分ではもはや何も考えないのである *」

 ニーチェの、そんな言葉も思い出す。

 しかし大抵の人が、いまやこのような「学者」及び「批評家」的要素をもって、要するに関心の対象から一歩引いた立ち位置、自分に関すること以外はすべて他人事、この世界に起きていることを車窓に流れる景色のように眺め、適当に何かスマホで呟いているだけの人が… このような要素をもっているのではないか。
 … オレか。

 ミュージシャンの奥田民生の、「モーツァルトやベートーベン、もう、いっぱい名曲は出ました。もう僕ら、あとは聴くことしかできないですよ」みたいな言葉も微かに被る。

「今は過渡期なのかもしれませんね」先日会った、その人は言った。
 いつの時代も、ずっと過渡期であった気もする。

 しかし… どこへ渡ろうとしているのだろう?

 *「この人を見よ」(新潮文庫)
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