第33話 山川さん

文字数 996文字

「せっかく、米ソ二大国間で核実験の部分停止条約が成立したというのに、今夏の広島、長崎両市での原水爆禁止大会は、見ぐるしいありさまのままで終わった」
 から始まる、山川方夫が新聞に書いていたコラムを全集で読む。
 コラムだから、短い。が、やはり山川さんはほとんど天才だったと思う。その短い文のうちに、ぼくは激しい感動を覚えた。その内容もにもだが、山川さんという人から溢れるやさしさのようなものが、全集の全体からこぼれてくる。

 なぜぼくは山川さんのことを書きたいか。たぶんご存知の方も少なく、できれば知ってほしい、という恣意が働いている。
「数年前、広島を訪ねた折に、ある小さなレストランで偶然、白髪のひとりの外国人を見た」とコラムは続く。
「同行したジャーナリストの友人によると、その老外人は、一生かかって貯めた金を原爆被災者に寄付するため、わざわざ金のかからない船旅で、はるばる広島までやってきたイタリアの床屋さんだった。今日、その友人の社にきて目的を果たしたので、今夜すぐ母国への帰路につくのだ。」

「疲れ果てたように白髪の顔をテーブルに伏せ、簡単な食事をしている背の曲がったその老人は、服装といいカバンといい、いかにも粗末だった。一本だけビールの小瓶が卓上に添えてあった。」
 山川さんは、その老人の姿に、心底から感動していた。そしてその感動が、今も忘れられない、と記している。ヒロシマの意味とは?と、たぶん字数の制限もあって、そそくさと考えるように終えている。
 その山川さんの短いコラムを読み、ぼくも全く感動していた。
 そうなんだよな、戦争とか、人類の問題なんだよな。と思った。そうして、個人として、でも人類ぜんたいの責任として、この老人は生涯かかって貯めた金を寄付しに来たんだ…。

 もう、言葉もない。
 山川さんの文、作品を読むたびに、せつない、かなしい気持ちになるのは、もうこの山川さんがこの世にいないことだ。
 このコラムは昭和三十八年に書かれたものだが、その二年後に山川さんは逝ってしまった。
 ほんとうに、これから、という時だったと思う。
 いい作品を、書き続けることがだいじなんだ、と肝に銘じ、その努力を怠らなかった人だと思う。
 山川さんが描写したイタリアの老人の姿、おこないに、ぼくはそれだけでなく、山川さんが感動した、その心根のようなものが二重にかさなって、忘れられないコラムになっている。
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