第204話 何か言うと

文字数 883文字

 日常生活で人に何か言う時や、何か一人で書く時、その時が終わった後、また何か言いたくなり、また一人で何か書きたくなるという、循環に陥り易い。
 自分で自分に突っ込みを入れたくなる。
 前々記に、ネットの限界めいたことを書けば、そうではないだろう、と自分に突っ込む。
 前記の、「もうダメだ…」の後には、ほんとにそうだろうか、これは誰に向かって書いているのか、と突っ込みたくなる。
 そして一度何か書き出すと、この理由から、また考えをまとめようとして、まとまるはずもないのにと思いながら、でもだからまとまることを、せめて輪郭を、と、また書き始めてしまうという。

 よく思うのは、具体例ナシに、たとえば今日タバコ屋に行ったが、やたら店番のお姉さんがニコニコニコニコしてくれるので、もらい笑いをしてしまった、この笑いとは何だったのか、といった具体例は一切ナシに、「喜び」の心理描写、「悲しみ」の心理の描写、具体例を一切書かず、心理内のみの描写をしてみたい、ということ。

 が、はたしてそういうことができるのか。
 とにかく心の中の動きだけを描写する。描写というより、論理になるだろうか。
 もともと考える=論理であるはずだから、現実的な、事実的なものナシでも、旅は可能であるはずだ。
 ちょっとこれは面白そうだが、たぶんこうして考えている間が面白そうなだけであって、実際に書くとしたら、ほとんど狂いそうな感じになるだろう。
 でも、いいかげん、そういうふうに書く努力をしていいのではないか?

 本質ってやつがあるとしたら、そいつが表象をつくっている本体である。
 眼に見えるものばかりに振り回されているとしたら、その振り回す、そして振り回される「本体」にこそ、もっともっと光をあてて、こまかく、こまかく見てみる必要があるのではないか? 

 まわりのこと、読まれるという意識は、もう言語の中に含まれているし、ほんとに内的なこと、外的な「考えるきっかけ」は捨象して、内へ内へとノメリ込んでいいのではないか?

 かなりムリのある話にみえる。でも、努力だけはしてみよう。
 ムリ、と、またほんとに分かるまでは。
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