第85話 文体がおかしな理由
文字数 1,715文字
キルケゴールの著作をジャンル分けすれば、哲学となる。が、もし「思索」というジャンルがあれば、それが相応しいと思う。
ガチガチの哲学、という分類に収められるのは、彼自身望まなかったろうし、机にへばりついて学問するより、自分の思想が「読者各人の生活の中に生かされること」が彼の本望だったからだ。
だから、あまり憂鬱になって彼に対したくない。だが、彼の本を読んでいると、憂鬱になってしまうのだ。単純に、難しい。
難しい漢字は、そんな使われていない。文体が難しい。読みにくい。ワンセンテンスが長い。
で、文字を追って、一回読んだだけでは、(こういうことかな)と文の内容を想像することで終わる。
もう一回、よく考えながら同じ文を読む。うん、やっぱりこういうことだ、と確認する。
そんなことの繰り返しが多い。読むのに時間がかかる。
頭がげんなりしてくる。一ページ読むのも大変だ。
「ドン・ジョバンニ」について延々と書かれた章は、嬉々として読めた。キルケゴールとモーツァルトという、自分の大好きな二人に向かえることが、強力なパワーになったのだと思う。
ところが、今読んでいる章は、彼の「自分との対話」とでもいうべき内容で、読者との接点は恋愛・結婚になるけれど、やはり思索が、途方もない思索が飛び跳ねている、深く地をエグっている、という様相を呈している。
これはもうキルケゴールとそれを目にするものの宿命であることは分かっている。
読んでいて、つらい。進めない。とくに頭のよわいぼくには。
モンテーニュは「分からないところは飛ばして読む」と公言していたが、なかなかそういうわけにもいかない。
ここ(ノベルデイズ)に何か書くときも、最近はやたら考えるようになってしまった。キルケゴールの思索癖がうつってしまったみたいな、考えるだけで手一杯という感じになる。
あの思索に思索をかさねていく作業、それこそ「自分のしたかったこと」であるはずなのに、それを書くとなると、頭の中同様、つっかえてばかりになる。そも、何を考えているのかという疑問が出ずる。
考えるということを考えてしまう。そして何を考えているのか分からなくなる、厳密には。
考えるということ、ぼくにはキルケゴールのあの「かさねていく作業」に、考えるということの本質のような、ほんとうの姿のようなものを見る。
周りより、自分。たとえ周りが理解しなくたって、自分はこうやってこうやって考え、それを論理化(文にすることは論理化だ)しているのだという、あの貫き姿勢。
あんなふうに書いていきたい、開陳していきたいと思った。が、あの進め方、書き方、内容では、誰にも読まれないだろう自信がある。
あそこまでイケないな、自分で自分の足枷をつくっているから、と思う。キルケゴールの時代は、本を買えることがブルジョワだったとか、そんなことは言い出すまい。あそこまで彼がイケた、その彼自身の覚悟、気力の充実といったところに、ぼくは憧れを見る。そして彼とぼくは違い、ぼくは彼になれないのだった。
もちろん自分であることに嘆いていない。嘆けるとしても、それも幸せなことではないかと思う。
思索に思索をかさねていく文章。それも、ほんとに思索だけの文章。
「すべて、自分の身に起きること、ふりかかってくるものを、感謝して受け止めること。どんな災厄でも、それは貴重な、あなたにとって貴重な、あなただけの尊い体験なのです」
といった言葉があるという。
そういう受け止め方のできる人は、とりあえず幸せであるという。
ところで、昨日辺りに久しぶりに更新した感じがして、見直してみればいかにツッカエながら書いていたかが分かる。で、その陳情みたいに今こうして書いてみれば、なんだかスラスラ書けた。
文体も、そんなおかしくなくなったと思う。考え考え、つっかえつっかえ書いたものは、たぶん流れるように読まれない。書いた本人が読みづらかった。何となく正直に書くと、自然文の体裁も整うようだ。生活も、そうなのだが。
でも、あのおかしな、読み難い文章が、キルケゴールの思索の流出先であって、魅力であり、読むのをつらくさせる、源泉でもあったのだが。
ガチガチの哲学、という分類に収められるのは、彼自身望まなかったろうし、机にへばりついて学問するより、自分の思想が「読者各人の生活の中に生かされること」が彼の本望だったからだ。
だから、あまり憂鬱になって彼に対したくない。だが、彼の本を読んでいると、憂鬱になってしまうのだ。単純に、難しい。
難しい漢字は、そんな使われていない。文体が難しい。読みにくい。ワンセンテンスが長い。
で、文字を追って、一回読んだだけでは、(こういうことかな)と文の内容を想像することで終わる。
もう一回、よく考えながら同じ文を読む。うん、やっぱりこういうことだ、と確認する。
そんなことの繰り返しが多い。読むのに時間がかかる。
頭がげんなりしてくる。一ページ読むのも大変だ。
「ドン・ジョバンニ」について延々と書かれた章は、嬉々として読めた。キルケゴールとモーツァルトという、自分の大好きな二人に向かえることが、強力なパワーになったのだと思う。
ところが、今読んでいる章は、彼の「自分との対話」とでもいうべき内容で、読者との接点は恋愛・結婚になるけれど、やはり思索が、途方もない思索が飛び跳ねている、深く地をエグっている、という様相を呈している。
これはもうキルケゴールとそれを目にするものの宿命であることは分かっている。
読んでいて、つらい。進めない。とくに頭のよわいぼくには。
モンテーニュは「分からないところは飛ばして読む」と公言していたが、なかなかそういうわけにもいかない。
ここ(ノベルデイズ)に何か書くときも、最近はやたら考えるようになってしまった。キルケゴールの思索癖がうつってしまったみたいな、考えるだけで手一杯という感じになる。
あの思索に思索をかさねていく作業、それこそ「自分のしたかったこと」であるはずなのに、それを書くとなると、頭の中同様、つっかえてばかりになる。そも、何を考えているのかという疑問が出ずる。
考えるということを考えてしまう。そして何を考えているのか分からなくなる、厳密には。
考えるということ、ぼくにはキルケゴールのあの「かさねていく作業」に、考えるということの本質のような、ほんとうの姿のようなものを見る。
周りより、自分。たとえ周りが理解しなくたって、自分はこうやってこうやって考え、それを論理化(文にすることは論理化だ)しているのだという、あの貫き姿勢。
あんなふうに書いていきたい、開陳していきたいと思った。が、あの進め方、書き方、内容では、誰にも読まれないだろう自信がある。
あそこまでイケないな、自分で自分の足枷をつくっているから、と思う。キルケゴールの時代は、本を買えることがブルジョワだったとか、そんなことは言い出すまい。あそこまで彼がイケた、その彼自身の覚悟、気力の充実といったところに、ぼくは憧れを見る。そして彼とぼくは違い、ぼくは彼になれないのだった。
もちろん自分であることに嘆いていない。嘆けるとしても、それも幸せなことではないかと思う。
思索に思索をかさねていく文章。それも、ほんとに思索だけの文章。
「すべて、自分の身に起きること、ふりかかってくるものを、感謝して受け止めること。どんな災厄でも、それは貴重な、あなたにとって貴重な、あなただけの尊い体験なのです」
といった言葉があるという。
そういう受け止め方のできる人は、とりあえず幸せであるという。
ところで、昨日辺りに久しぶりに更新した感じがして、見直してみればいかにツッカエながら書いていたかが分かる。で、その陳情みたいに今こうして書いてみれば、なんだかスラスラ書けた。
文体も、そんなおかしくなくなったと思う。考え考え、つっかえつっかえ書いたものは、たぶん流れるように読まれない。書いた本人が読みづらかった。何となく正直に書くと、自然文の体裁も整うようだ。生活も、そうなのだが。
でも、あのおかしな、読み難い文章が、キルケゴールの思索の流出先であって、魅力であり、読むのをつらくさせる、源泉でもあったのだが。