第321話 墓碑銘

文字数 1,101文字

 池田晶子の「人間自身」によれば、外国の墓地を散策中、墓に様々な言葉、故人の言葉が刻まれていて、彼女はそれを見ながら歩を進めていると、ある墓にラテン語で「次はお前だ」とあるのを見たという。
次はお前だ」。
 これは凄い。死した者が、のちにこの墓地を訪れる生者すべてに訴える、真実の言葉だ。いや、これ以上の真の言葉はない。

 墓に刻む言葉。死にゆく者が、生きているあいだに最も云いたかったことを表す。
 自分の場合、何だろう、と今まで考えたこともないことを考える。「世界が平和でありますように」宗教的だ。「愛こそすべて」ビートルズになってしまう。「この世は地獄」「心に平和を」「ひとりひとり」「明けない夜もある」「楽しみました」「ものの弾み」…

 自分の云いたかったことを短い言葉で端的に表す。これを考える時、内省と外察、二つの方向がある。見る者に訴えかけたいとするか、自省にとどまるか。
 言葉は外的である。形になり、外に出ると同時に、「私」のものではなくなる。だがその言葉は「私」から生まれたことも事実である。生みの親である私は死んでいる。もう変化することもできない。言い直しもできない、文字通り「生み落とす」最後の言葉。
 死ぬのは、他の誰でもない「私」である。その死後に、生者に向かって、その墓の前に立つ者がいるとして、云いたいこと…
 死んでいる私が云いたいこと?

 生きているうちにしか考えられぬことだ。
 死してなお云いたいこと… 死んで初めて書けたらいいのだが。まだ年も明けていないのに「おめでとうございます」と書く賀状みたいだ。
 死は、この死は「私」だけのものであろう。他にも沢山の方が死んでいらっしゃるけれども、とりあえず私にとっての私の死だ。
 とすると、内省に重きを置き、内的なもの、単体である「私」の自省であるところの言葉が、相応である気がしてくる。
 しかし言葉、まして石に刻む言葉、明らかに形となる以上、外的である以上にあり得ない。
 
 これはもう、言葉のもつ運命、私とは別個の、私の運命とは別物の、言葉が言葉であるゆえの運命であって、私というものは何物でもないような気もしてくる。
 私は言葉ではなく、存在でもなく、形でもない。それが私というものをつくる「造物者」の正体であった。
 さらにこの「私」なるものは、墓に入った時点でもう「いない」のだ。もともと無かったものが無くなっただけの話である。

「無の境地」しかし、そこにいることもいたことも、もう感じられないんだよな。… 「さようなら」見る人は、そんなことわかっている。「愛しています」もう愛せないしなぁ。
 私は、何が云いたくて書いてきたんだろう?
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