第327話 批判精神と同調意識(4)

文字数 1,291文字

 せっかく話題に上ったことだ、「天才」について考察してみよう。
 思うに天才というのは偶然と必然の一致、集と個の一致、時間の一致なくして生まれない。
 かの墨子にしても戦乱の世であったから、鉄壁ともいえる防御の才を発揮した。「墨守する」という言葉が現代にまで残るほどに強く、秀でた才であった。だがそれは戦時下にあって初めて発揮できた能力だ。

 具現化できること、物理、科学、生物学、医学、…兵器…「物」として個人の思考発想が具現化されるもの、その分野ではいかにも「才」の発揮が物品として表れる。
 発明をすること── 発見をした人。しかしそれははたして天才というのだろうか。本人にしてみれば、自分のいわば直感、直観に従い、それについてあれやこれやと模索し、実験し、試し、その挙句に実現した結果にすぎない。要するに天才というのは周りがそう称する、そう目するものにすぎず、本人はただそれをやった(・・・)だけのことなのだ。

 考える人もいっているように、リンゴが落ちたことを見たことによってニュートンは万有引力を導き出したといわれるが、リンゴが落ちるところなど、それまでの人類、いったい幾億人が見ていたというのか。
 おそらくニュートン自身が、リンゴが落ちる(リンゴが落ちる以外に、さまざまな事象に彼は同様の何か共通のものがあることに目をつけていたはずだ。それらの事象の類似点に、彼自身がその引力に引っ張られていたはずなのだ)ということに、なぜ自分はこれほど引きつけられるのか、最初は分からなかったに違いないのだ。

 その「引かれた」自己を基点、始点として、それをうっちゃることなど到底できず、「こだわらねばならぬ自己── その対象と自己との関係から成る時間」を費さざるを得なかった(・・・・・・・・)
 あの「地球が回っている」と言い出した人も、一歩間違えば狂人であり、精神病院に閉じ込められてもおかしくなかったようにみえる。しかし彼にとってみれば、どうしても空が回っているとは思えなかったに違いないのだ。
 まわりの人がどうあろうが、その対象に執心せざるをえない(・・・・・・・)ものを、その身の内にかかえていたようにみえる。

 根本は、デンマークの哲学者のいうように「自己と自己との関係」なのだ。まわりとの関係も、そこに端を発する。
 自然科学、数学(記号・公式、答に至るまでの道筋・答があるとされる(・・・)もの)とくらべ、哲学・考えるということに、はたして答はなさそうにみえる。カント、ヘーゲル、「哲学」と称せられるものの歴史をたどれば、進化(変化)なり発見はあるだろうが、そういった場合の哲学は申し訳ないが机上の空論、脳ミソと指だけが机にへばりついているようにみえる。血肉がない。肉体がない。その躍動がない!

 ここでもまた考える人の「哲学(・・)なんて」、または戦後文学者の言、「思想(・・)なんてブタに喰われればいい」をさえ私に想起させる。哲学・思想なんて、そんな高尚めいた額縁に()め込むものではない!
 全く、なぜ空が動くのか。なぜリンゴが落ちるのか。こんな毎日の見慣れた風景、またかの景色、慣れすぎた日常の中にこそ発見が、無尽蔵に埋もれ、みだらなほどに溢れている…
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