第156話 曖昧な言葉

文字数 1,928文字

 やさしさ。曖昧な言葉だ。「やさしい」と言われたことは、これでも幾度かあるが、悪い気はしなかった。介護の仕事で、人と直接関わり、接する状況であった時、いろんな人から言われたものだ。また、小学時、クラスメイト全員が全員の長所と短所を作文に書く、という課題を与えられた際、約40人から僕の長所として「やさしい」が、ほとんど欠かされず書かれてあった。おそらく、人から「やさしい」といわれたのは、あの作文が初めてだったと思う。書かれた僕は、特に嬉しいという気持ちにならなかった。気になる女の子が、そう書いてくれているのを見た時は、少し誇らしい気になった。
 工場での労働、モノを相手にする仕事では、「やさしい」といわれたことがない。人に対する時、それを見る人、そうされる人から、評される言葉らしい。いわれて、悪い気はしない。だが、一体「やさしい」が、何をいっているのか、僕にはわからない。わからないまま、何か悪い気はせず、何か良いことをいわれている、と思ったのだ。
「やさしい」は、人が人を評する時に、よくいわれる言葉で、「私、やさしいんです」と自分から言う人をあまり見たことがない。あくまでも、人から言われる言葉で、自分から言う言葉ではないようだ。「やさしい」というもの、やさしさというものは、自分ではわからない、自分から自分を評し得ない、評すのは憚れるもので、他人に初めてそう言える権利があるかのようだ。

 そしてそう言う人も、何か漠としたまま、そう言っているかのようなのである。どこかうっとりして、半ば夢見るように言っている。現実にいる相手を見て言う、というより、その人の中の、何か憧れのようなもの、憧憬を見るように、言っているのだ。
「やさしい」と言われ、何かピンと来ないものを感じるのは、その相手と自分の乖離、距離が、そこに生ずるからだろうと思われる。「やさしい」と言われ、本気で嬉しくなる者は、「やさしい」という曖昧な言葉の中に、すっぽり自己を埋められる、雲のような精神のように思われる。
 好意を持つ相手にそう言われれば、喜び、好きでもない相手からそう言われれば、フン、と相手にしない。曖昧な言葉であるから、こちらが受け取るも受け取らないも、まるで自由に扱える言葉であるようだ。だが、やはり悪い気はしないのだ。
「やさしさ」。
 やさしい人ね、と女の人から言われたりしたら、僕はその人のモノになった気がするだろう。僕はここにいる。だが、まるで僕ではない、自分ではないものを、その人は僕として、その人の中に生じさせたという気になるだろう。それは僕の何かではあったろうが、まるで僕ではないという気が僕に生じるだろう。その人は僕に、何か幻想を見ているような気にさせるだろう。
 彼女の幻想に、僕は溶け込むことができるだろう。だが、それはどこまでも漠然としている。そして僕は骨抜きになる。骨格をなくし、彼女の幻想の中に持って行かれた僕らしきものが、彼女の中で息づきはじめる。僕はそれを否定しない。その彼女の中の僕は、そんな悪いものでもなさそうだからだ。そしてそのままにしておく。
 だが、そのままにされたのは、僕が僕であるとした僕の中の僕なのか、彼女が僕とした彼女の中の僕なのか。彼女は、自由である。だが僕は、不自由そうだ。彼女に捕らえられた僕に、僕が捕らわれているからだ。それは僕ではない、きみの思う僕は僕ではない。だが、こんなことから、恋が芽生えもするものなのだ。そう、きみの思う、きみの中の僕が、僕のとおりであったなら! 僕はきみの中で舞いながら、僕の中でも舞うだろう。飛翔を続け、同じ墓の中にも入れるだろう…

 だが、いずれきみは、きみの中の僕に裏切られるのだ。そして僕には、何がそうさせたのか分からなくなっている。二人は別れる。誤解のせいにして、不一致のせいにして、違っていたのだというせいにして。一体何が理解だったのか、何が一致だったのか、何が正しかったのかも分からない。分からぬまま恋し、分からぬまま終えることになるのだ。
 それでも続いていく関係、それが愛らしきものだろう。けっして尖ることなく、「やさしく」なっていくのだ。そしていよいよ、分からなくなっていく。だがもう、それこそをそのままにしていく。包容し、包容されるのだ。誰が誰を。その誰は、誰も、誰のものでもない。
 きみが僕としたものも、僕がきみとし、僕としたものも、誰でもなかったのだ。
 そこに、生き続けられたら! 何とも、諍いのない、まさかの和平、いきなりの茫漠、捉えどころもない漠然そのものとなりながら、これが自己かと見つめ合う、存在どうしが包容し合う、そんなユートピアが、現出したりしない…だろうか。
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