第99話 取り越し苦労

文字数 1,876文字

 自分の人生、取り越し苦労ばかりで埋められているのではないかと思った。
 先日実家に行ったわけだけど、その一、二週間前には、「この日に伺います」と電話をしていた。兄嫁が出て、何やかんやと話をした。だが、ぼくの携帯電話、途中でよく音が途切れていたのだった。向こうは家電で、途切れることなく、順調に聞こえているようだった。
 久しぶりに話すし、電波状態が悪いと言って切るわけにもいかず、そのまま会話を続けた。だが、やはり不自然な感じの「間」ができてしまう。兄嫁はこういうことを言っているんだろうなぁ、と想像しながら話す。
 やがて兄が出て、どうもお久しぶりです、と始まる。だが、やはり途中、無音になる時があって、話がうまく弾めない。軽薄な相槌を打ったり、話頭を変えたりして、それでも三十分ほど話した。
 要件だけ言って切るのがよかったのだと思うが、三年ぶりに話すし、そうもいかない感じがした。
 そして話が終わり、電話を切ったあと、憂鬱が始まったのだった。

 兄と兄嫁は、心配するのではないか? 「なんか話し方、おかしかったわねえ」「うん。大丈夫かねえ」そんな会話が、行われていることを想像した。
 電波状態が悪いから、と、要件だけ言って、なぜ切らなかったのだろう? ずるずる、どうして、よく聞き取れないまま、会話を続けてしまったのだろう。こんな悔恨が、胸を押しつけ始めた。
 この憂鬱は、実家に行くまでの一、二週間、続いた。具体的には、何をしても気が晴れず、常にあの「成り立っていないような会話を続けた三十分」に心が捉われ、後悔をし続けたということだった。夜、寝る前も思い出し、朝、起きては思い出した。

 こう書いていると、ほんとうに、バカだなぁと思う。だが、憂鬱の波の中にいる時は、バカだなぁとさえ思えない。そういう、客観的に自分を自分から離して、「バカだなぁ」と本気で思え、あきらめる、というようなことができない。で、いつまでも、うじうじと、後悔を続けることになる。
 そして「ミツル君(ぼくの本名)、アタマおかしくなっちゃったのかしら」と、兄嫁が兄に話すような場面が想像され、何とも苦しく、憂鬱な時間を一、二週間、過ごしていた。

 そして約束の日、実家で兄夫婦に迎えられた。何ということもないような話でわいわいやった後、一、二週間前の電話の事情のことを話した。
 よく聞こえないまま、話をしてしまって、おかしな電話じゃなかったか、ぼくの様子がおかしいように思われて、へんな心配をさせていなかったか、そんなことをやんわり話した。
 すると兄は、いえ、全然そんなことなかったですよ、と言う。兄嫁も、ううん、全然おかしくなかったわよ、と言う。
 一気に、肩の力が抜けた。

「取り越し苦労」。ひとりで、何だかんだと想像し、ああ、ああ、と、ひとりで憂鬱になっていたのだと思った。
 考えてみれば、そんなことが、ほんとうに多かったと思う。亡くなった父母は、ぼくが「安定した会社」に勤めることを望んでいただろうし、それができない自分をぼくはずっと引きずって、親と会っていても申し訳ないような気持ちでいつも一杯だった。だから生前、親と会っていて、心から楽しめ、笑えたことが、なかった、と言っていい。
 もしかしたら親は、とにかく元気でいてくれたらいい、と考えてくれていたかもしれない。にも関わらず、ぼくは自分の強迫観念というか、「自分はこうあるべき」(親から見ての)という枠を自分でつくり、そこにハマらない、ハマれないことに、ひとりで悶々としていたようにも思えた。

 ほんとうに、取り越し苦労… 思い込み、これをして、ずいぶん苦しんできた、自分で自分を苦しめてきた、ような気がする。
 人の目ばかり、人が自分に求めるものばかりを、そういう自分になろうなろうとして、そんなふうになれないことはもう分かり切ったことだったのに。
「お父さん、もっと自分勝手でいいんじゃない?」と娘にも言われた。
「そうだよ、自分勝手でいいんだよ。今さら、ねえ」と、もう40年つきあってもらっている、元予備校講師の先生にも。
 そうだよなあ、今さら、と、ぼくも思う。思っていいんだろうか、と半分不安になりながら…。
 ほんとうに自分勝手になれるんだろうか、自分勝手に生きてきたようだから、もうしようがない、でも、ほんとうに自分勝手になれるんだろうか。自分は、ほんとうに自分勝手になれるんだろうか。自分勝手になる、その、なり方が、よく分からない。
 何かを正面から受け止めず、まだ逃げているんだろうか、逃げ道を探しているんだろうかと思う。
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