第100話

文字数 1,245文字

 しかし… やはり身体が資本だなァ。
 今年は、一気にガタが来た。
 腰がおかしくなったのを皮切りに、肘、そして眼。
 去年の六月下旬から「ノベルデイズ」に書き始め、とにかく書いてきた代償かしら。
 何日か、書かない日が続くと、それを埋め合わせたいとするが如く、「空白の時間」を染めようとして何か書いてきた気がする。
 あれやこれやと、言葉でもって、頭の中をカタチにした気になって、それで何がどうなったというのだろう、と半分ぐらいムナシサを感じたりもする。

 吉田秀和さんは、「曲を書く人は、書かないと生きて行けない、という人が書くべきだと思う」という意味のことを言っていた。
「書かざるをえない自己を持った者、まわりはどうあれ、書かないと、やって行けない人」を指すのか。
 書かないと、食って行けない人だけを指すのでなく、食って行けようが行けまいが、「書かざるをえない人」のことを言っているのだろうと思う。

 音楽評論家として吉田さんは、「自分は、正しいことをやって行こうと思った」という。批評する立場として、強い信念と覚悟をもって。
 戦争時代を生きた人は、強いなァ、などとも思うが、信念や覚悟は、どんなに時代が変わろうが、誰でも持てるものだろう。
 山川方夫は、江藤淳に言ったそうだ、「モノ書いて食えなかったら、適当な他の仕事をして食って行こう、なんて、そんな甘いもんじゃないぞ」
 この文を読んだ時、アレッ、と思った。ふつう、「モノ書いて食って行けるほど、世の中、甘いもんじゃないぞ」ではないか?
 それを山川さんは、「他の仕事をして食って行けるほど、甘いもんじゃない」と言っている。
「きみは、書かざるをえない人間なんだから」と言い、「きみは、書いて食って行ける。ぼくが保証する。ぼくに保証されても、不安かもしれないが」と励ましていた。
 だが、山川さんの言った通り、「夏目漱石論」を書いた江藤淳は、文芸評論家として食って行ったのだった。

 食って行ける、行けないというのは、もちろん重大な問題だ。にも関わらず、でも「書かざるをえない」そんな習性をもった人の書くものが、もしホンモノというものがあるとしたら、ホンモノのような気がする。ぼくなんかのことを言っているのではない。まわりの評価はどうあれ、書かざるをえない自己を抱えた者、全般に、言えることなのだ。

「ヒマつぶしに」とか「趣味として」で書くべきではない、と吉田さんは言う。吉田さん自身、そういう覚悟をもって書き始めたからこそ、言える言葉だろう。中村紘子や小沢征爾を生徒に持ち、厳しく、音楽というものを教えた、生きざまもあったろう。

「主観的なしごとではあるけれど、発言するからには、社会的な責任があると思うんです」。吉田さんの言葉は重い。
 今に換言すれば、「ネットで発信するからには、社会的な責任が」ということになるだろう。
 と考えると、やはり独り言をいっているわけではない、ということになる。
 だらだらと、なにやら書いてきた自分は何だったんだろう、と思う。
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