第129話

文字数 2,838文字

 さて、きみがきみをきみとした、きみが自分を自覚した、その初めての体験は、きみの意識においての「自己否定」だった。
 きみは、「まわりと違う自分」を意識をした。させられた。
 きみはきみであった。でも、まわりは、そのきみであることを許さなかった。
 当然のことだった。きみは、「みんながしている」「普通のことを」できなかったのだから。
 客観的には、きみはしなかった。だがきみとしては、できなかった
 きみにとって、それはとんでもない勇気の要ることだった。だが周り、「一般」にとっては、それは空気を吸うように当たり前のことだった。
 なぜしないのかという周囲と、なぜできないのかという自分。ここに、きみは戸惑った。深刻に戸惑った── そう、不登校とか登校拒否とか呼ばれることを、きみは

のだ。

 今や、もう周りにとってはどうでもいいことだ。だがきみはそれにこだわっている。きみ自身の問題だから、こだわらずにはいられないのだ。
 その後(きみが不登校をした後)、たまたまそのような子供が増えた、らしい。
 増えたといっても、それまでの「普通」が絶対的だったので(絶対的なものが普通というものだ)、それを揺るがしかねない非普通者、「常識」にとっては好ましくない人種、きれいな整列を乱す異分子── として注視させるべくメディアが取り上げた、茶の間の主婦を「うちの子は普通でよかった」と安心させる、視聴率稼ぎの恰好なタネだったかもしれない。

 だがきみはその後、「学校は兵隊をつくるでしょ」とか、著名な芸術家がきみに言った言葉を気持ちよく受け入れ、「学校に行かないでいいというのは、一つの宗教ではないか」と言ったNHKのディレクターには首を傾げ、「社会に必要な人間をつくるのが学校教育で、社会が間違った方向に行っている場合、それを拒否することは、親にとっても子にとっても大切なことだろう」といったような人、または映画監督と親しくなって行ったのも、偶然であり必然だった。
 きみは確かに、局地的に注目され、また注目されることを厭わなかった。だが、それも偶然必然の賜物、ただ

というだけなのだ、まわりも、きみも、ただそうなった、そうなったというだけなのだ、それだけのことだったのだ! きみは特別でも何でもない、単なるきみにすぎなかった、そして周りは複数形に見えたけれども、単・単・単が、そう見えたにすぎなかったのだ。

 きみはきみ自身に引きずられ(その引きずる本体を若干、常に気にしながら)、また同時進行するかたちで周りに引きずられ、つまりきみはきみを引きずり、きみ自身と、きみの「今」をつくる、構成するもの、それは周りであった、それとともに「生きて来た」。

 たとえ周りが、この場合社会であるが、きみのような不登校者、登校拒否者(この二つの名称は、厳密には意を異にする。前者は積極的に、主体的に、すすんで不登校をする、という意味が含まれる。後者は、行きたくても行けない、頭で行かなければと思っていても身体が拒否をする、といった意味が含まれる… どっちにしても、「行かない」「行っていない」という形だけが同じだ)、そのような者が増えたのも、偶然であり必然であったろう。この場合、必然のほうが大きいようにも思えるが…。
 そんな「社会」のなかで、つまり学校に行かぬ者が増えたということで、きみは自己正当化に成功する機会が与えられた、と言っていいだろう。
 多勢に無勢、の無勢が、たとえ少数であっても、増えたとされたからだ。
 もし無勢のままだったら、きみは「脱学校の会」に参加しなかったろうし、そも「不登校の会」という集り自体が存在しなかった。きみは、徐々にそういう会に顔を出し、そこから始まる人間関係を楽しんだ。恋人さえもつくった!
 ところで、そういう状況、「社会」がそういうふうに変わらなかったとしても、きみはそのようなところのきみ、つまりきみであるところのきみ、きみの生来の性質自身と逢着し、周りによって、またそれを契機にきみ自身の思考によって、きみはきみの壁、つまり「生きづらさ」といったようなものを感得していたに違いないのだ。
 つまり、どう転んでも、きみはきみ自身から逃れることはできないのだ。できなかったし、これからも、できないのだ。

はどんなに変わっても、きみはどうしたわけかきみであり続けることになるだろう。

 きみはそんな自分を厭み、この世から消えたいと、自己否定── あの幼少時にきみに、深い感じで生殖した自己否定の部屋に、籠る。かけがえのない引き籠りだ、きみはむろん、八方美人風に、ニコニコと、愛想よく、いろんな人と交流した。だが、きみには常に「籠る部屋」を後生大事に持ち続けて来た。いや、これは何と大切な部屋だったろう!!
 一人であるから、独りであるから、二人にもなれ、友達らしき人とも一緒になれたのだ、その「時間」を持つことができたのだ、時間に

、持たれることができた、というべきだろう、持たされた、時間のなかにそういう時間があり、自己もまた周り、一人一人がそこにあった、ということだ。

 きみは自分というものが信じられない。周りを、常に気にしているからだ。私はそれを、無理からぬことと思う。きみは、きみ自身の自己否定から始まっているからだ。きみは、否定されることで自己を知ったつもりになったし(それは過去として事実だ)、また、否定されなければならなかったのだ。
 いつまで引きずるつもりかね?
 時はどんどん進んでいるよ、それはきみ自身だ。きみ得意の大仰な物言いをすれば、きみは宇宙という全体であり、地球という個体なのだ。きみはそのなかでたゆたい、眺め、掘り、きみという形象、意識、きみの目、きみの臓腑、身体同様に在る、また身体に宿るようにある、自己というもの、この自己というものとある、周りというものと、同時に、この同時のなかでは寸分(たが)わず、存在を存在として存在し続けるのだ…

 まだきみは、自分を特別だと思っているのかね。よろしい。きみは特別だ。淋しいって? きみが求めたものじゃないか!
 求める・求めざるに関わらず、きみはきみとして限定されているのだ。それは限界ともいえるが、きみはここを離れ、宇宙のなかで生息することはできないのだ。
 きみはここにいる。ここにいる、あっちでもそっちでもない、ここ、ここ、ここにしかきみは存在できない。
 いいじゃないか、いいじゃないか。ほんとうに、いいじゃないか。きみは、ここにいるのだ、否定も肯定もなく! ある、ただ在る、ある、在るのだ… どちらかといえば、どちらでもなく、肯定するしかないじゃないか?
 受け入れよ、受け容れよ。受容するに、たいした努力も、ちからも要らぬ。
 力なんか入れると、かえってきみ、反してしまうよ。邪魔になるよ、きみが、きみ自身の障壁になるよ。力を抜いて行くんだよ… きみはきみという時間であり、存在であるのだから!…
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