第324話 批判精神と同調意識(1)

文字数 1,550文字

 具体的なこと── 結局それは日常生活のこと── を書き、それは一つの事実を越えることはなく(それは過大にも過小にも書いてはならない!)、あくまで己が体験した一つの例、サンプルとしてそれを客観的に見つめる。
 この作業をした上で… この事実すなわち文字化された事象についての感懐を書く。
 このような仕方で一話一話を立たせてきた文が多い。そのような書き方が、最も読者に伝わる方途に思えたからだ。
 何しろ事実は誰にも否定できない。事実は既に起こったことである。それを体験した当人にしてみれば、「既知」のことである。それを書き、それをさらに公開するということは、それを「周知」させる行為に等しい。
 なぜこんなことをするのか?

 いいたいことは、その「事実」そのもの(・・・・)ではないからだ。事実はどこまでも事実の域を越えず、過去になって初めて「事実」となるのであって、その事実が生じ、生成されているあいだは、その事実について何も書くことはできないのだ。
 とすると、何かを書くこと── その書くことの対象は、常に過去であるといえる。書くという行為の真っ最中でさえ、過去になっていく始末である。

 ところで、この書き方、まず「事実」を書き、それからその「文章」となった「事実」についての自己の思い乃至いいたかったことを書き連ねるという書き方。なぜこんな作業を私は延々と続けてきたのか?
 そもそも、なぜこんなことをまた書きたくなったのか?
 仔細に眺めていこう。
 自分と似ている著者の本── このような本は危険である。いいたかったことが、すでにいわれている! もしくは、いおうとしていたことが(これは己が考え(・・・・)己の言葉で(・・・・・)いうべきことである!)みごとに言語化されていることを目の当たりにする、このとき私の感情は喜びとともに、やや哀しい、いわば希望と絶望が混合した壺に落ちる。

 たとえば「哲学エッセイ」を確立した哲学者は、(この著書を何十年も前に友人から貰い、昨日やっと一ページ目を開いた)「哲学という言葉は嫌いである。『考える』でよい」と書いていた。
 これは、ついこないだ私がここで書いたことと寸分たがわない。やばい、と思った。この哲学者とは、どうも自分と同じ匂いがするなぁとは感知していた。
 読み進めていく、というよりもう読みたくなくなったので、二、三ページを流し見すると、やはり私のいいたいことが書かれてある!

 要するに、「考えること」(哲学)は、あなたの日常に転がっている、何も学問する・身構えてする、そんな必要はサラサラない、ただ日常の事象、情況、なぜそれが起き、その起こったことについてなぜ自分はこう感じ、こんな言動をし、こう考えるのかということを考えること、それが考えるすなわち哲学するということに他ならない……

 これぞまさしく私のいいたいこと、私の書き方(・・・)の土台を為すもの・為してきたものであって、そのような仕方で、つまり「万人が否定できない事実というものを書き、それについて万人でない私の、私というものはこう感じ考えるのですが、あなたはどう思われますか」という問い掛けをすると同時に、その事象に対する自分自身、根本のところで「わからない私」を言語下にて組み立て、私が私であるかのようにさせる心持ち、精神、気といったものを整理し収めたいとする欲求の要求に従って書いてきたものである。

 さらにまた、このような著書は、私の最も警戒する自己正当化、そして「この人も、まして著名人が私と同じようなことをいっているのだから」という、全く自分と同じである筈のない人間を、ただ似ているというだけで、自分に都合の良い土俵に持ってくるという都合の良さ、ここにも自己嫌悪を禁じ得ない。
 何やら長くなりそうなので、何回かに分けて書いていこう。
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