第371話 大谷翔平の夢

文字数 1,637文字

 まぁとにかく凄い人だ。
 日本の全国の小学校にグローブが届き始めているという。
 能登にも素早くお金を送り…
 ラジオ深夜便のアンカーも言っていたが、「お金の使い方を知っている人」だ。
 正しい金銭の使い方を。
 正しい、間違いというのは、本来、ない。固定観念がそれをつくる限りは。正誤のほとんどは、そんな借り物の尺度によってつくられている。なぜかりそめの観念ができあがるのか?しかも絶対的なように固定された、動じ難い、揺れない地盤のような観念が。
 借り物である。どこから借りてきたのか。お金であればお金そのもの、時計なら時計、食糧なら食糧、そのもの、そのものからである。
 そのものは、ただそこにあるだけである。この肉体にしてもそうなのだ。こいつに意味をつける、価値をつける。こっから、捻じ曲げられる。そのままであるものがそのままでなくなる。そのものがそのものでなくなる。そのもの、そのもので十分であったものが、かえって不十分になる。十全であったものが、いびつになる。そのまま、そのものでよかったものが、それでよかったものが、そこにあるだけでよかったものが!

 この大谷という人の行動。この人にとっては、その肉体は、借り物ではない。その生命の宿る肉体は、彼の魂と言っていいものと一致している。その肉体は、かなり酷使されている。だがそれも不一致から始まっていないので、彼にとっては何の無理でもない、自然きわまる、自然でしかない、彼にとっては呼吸するようなことなのだ。
 まわりが何と言おうが、彼は彼の魂と肉体を統一し、彼という人間の中で一緒にやって行く。まわりの人間も、彼にとっては自然の空気のようなものだ。意に介すわけもない。
 野球というのは、彼にとって自分の能力を試す媒介にすぎない。自分の魂が、肉体が、向かうものにすぎないのだ。
 ほとんどの人は、不一致から始めている。借り物から始めるから、長く生きようとか金持ちになろうとか有名になろうとか、それらが《よい》とされているから、それにそぐうように生きている。
 彼はそうではない。「今」をずっと生き続けている。刹那的とも見えるが、それが彼にとっての自然で、その自然は絶対的な自然なのだ。生命というもの、すべてに通ずる。
 記録も、金銭も、あとからついてきたもので、彼はそれ以上のもの、そんな範疇におさまって満足しない、それ以上のものを今に、常に、身におさめている。それを知っている、ほんとうに知っている。
 さしあたって満足はするが、それがその瞬間であることを知っている。その時は、もう過去になることを知っている。そしてそんな「知」に捉われない。

 何とも、すごい人と同時代に生きているなと思うが、このような人は今までにもいた。ただ忘れてきただけである。
 思い知らされる── 思いを、知らされるのだ。この思いは、共感、反感、根っ子は同じだが、もともと人間に、生命に、備えられているものだ。人間は、こんな言葉にしてしまう。そんなものではないのだ、言葉に収めて、カゴに入れて鑑賞する、こいつは凄いとかあいつはダメだとか、くだらん比較、たけくらべをして成長度合いを確かめる。ばかかと思う。
 それは、それだけで完全だったのだ、完璧なのだといっていいだろう、一つ一つの存在、あること、生命、あるものの一つ一つは。一つ一つ、一人一人、一個一個で。
 金も時計も食糧も。その一つ一つと、何ら異なるものではない。万物がそうなのだ。
 彼はそれを知っている、だから自分を驕ることもない、他人を見下すこともない。したとしても一瞬で、すぐに彼は戻っていく。そんなところで、遊んでいない。もっと愉しい《遊び》を知っているのだ。自分の生、肉体、魂と。
 無自覚、ほとんど無自覚に。だから本物なのだ。借り物でない。
 お金もグローブも食糧も、道具にすぎない。彼にとっては、彼自身の魂、生命の発露にすぎない。万人、万物が持っている魂、思い、生命のようなものが、それをキャッチする。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み