第389話 自分が愉しむこと

文字数 1,219文字

 ボブ・ディランをよく聴いている。くどい。歌詞が長い、一曲が長い… それでもなぜか聴いてしまう。たぶんこの人の芯(出たぞ、また芯が)、これに同様の人の他の音楽を今は聞き飽きているからだろう。
 この人のライブなんかを聴くと、オリジナルの原曲(スタジオ録音されたアルバムに入ってるやつ)と全く違う曲に聴こえることが多い。そのライブにしても、この会場ではこんなふうに、あの会場ではこんなふうに、と同じ曲を全然違ったふうな曲にして歌っている。
 ツアーなんか、ほぼ毎日歌い続けるわけだから、しかもほぼ同じ演目を、これじゃディラン本人も飽きるだろう。で、彼自身が同じ曲に色々変化をつけて、愉しんでいるように思う。飽きへの抵抗だ。仕方なく、か。でなきゃやってられん、という感じはする。
 かなり自我の強い、まわりへ主張する自我というより、自分自身への、止められない流れをもっている印象を抱く、この人の音楽を聴いていると。
 
 この人は、とにかくいろんなミュージシャンに影響を与えたそうだ。やはり芯が、と、またぼくはいいたくなる。星、か。その引力にひかれて、いろんな音楽家が彼のまわりを回りはじめる…
 70年代に行なわれたライブのツアーは、しかし不評であったらしい。観客からすれば、レコードで聴いた大好きな曲が、まるで違う曲になってしまった、変なアレンジをするな、変えるなよ。そんな失望もあったろうか。
 だがディランにしてみれば、俺は同じ曲を同じように歌いたくない。これがイヤな奴は家で聴いてろ。そこまでいわないにしても、そんな割り切りがなければ、なかなか続けることがしんどかった、何より自分がつまらなかったのではないか? などと想像する。
 要するに、自分中心の、自分本位な、あまりサービス精神のない人、のような気がする。この人がライブ中に笑っているところを見たことがない。
 笑わないというのは、すごいと思う。

 自己中心… 勝手とかエゴとか、そんな属語のグループに入りかねない言葉だ。でも、べつに誰に迷惑をかけているわけでもない。ただ彼は音楽が好きで、自分の曲が好きで、「好き勝手に」やっているのだ。と思う。
 ぼくの勝手な想像だ。彼が勝手に歌っているとしたら、ぼくも彼のことを勝手に想像している。観客も勝手にいろんなことを思って彼の歌を聴いているだろう。勝手、勝手で、それぞれに。
 この世の人間関係、すべからくそういうものじゃないか、とまた想像に羽をつける。
 そうして、それぞれにおのおの、愉しめばいいのだ。何よりこの場合、この歌の作り手、ディラン自身がひとりで愉しんでいるではないか。
 仕方なくに、だとしても。
 しかしほんとに言いたいことがいっぱいあったんだろうな… 英語で何言ってるか分からないが、空気の震動、見えない音楽の言葉で、何かわかる気がする。
 そう、この世の人どうしの「理解する」「わかり合う」ってところのやつも…
 気軽に行こまい。(三河弁だ)
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