第168話 モーツァルトの自由
文字数 1,799文字
モーツァルトは繰り返しが多く、シンプルといえばシンプルな楽曲が多い。オットマール・スイトナーさんの指揮の「ジュピター」が楽譜通りに演奏され、通常なら30分ほどのこの曲が40分の演奏になったこともある。第四楽章の同じメロディの繰り返しが多かった。
ピアニストの誰かが「モーツァルトは難しい」と言っていた。理由は「シンプルだから」。
単純だから、難しい。カンタンなことを表現するのは、実は難しい。そんなニュアンスも含まれると思う。文章を書くのも、同じようなものだろう。生活をして行くのにも、人々の中で表現が必要になる。簡単な言葉で真意が伝わり、単純な態度で理解し合えたなら、何も難しいことはない。
だが、なかなかそうはいかない。
「そうはトンヤがおろさない」のトンヤが、どこにいるのか知らないまま、おろされないものがあるために、おろされることを望み、失望したりまた求めたりを繰り返す。単純な中に真理があるのはホントウで、しかし単純なままでは済まされず、ハンダごてが必要になる。
そうこうするうちに、事の本質、もともとの原因、実態、本体が行方不明になる。
〈 パンツをはいたサル 〉のやむなき悲喜劇のように見える。
何も考えないのがいい。だが、いくら何も考えないようにしようとしたところで、それはムリな相談なのだ。ヒトとして備わった性能を、それは放棄しようとすることになるからだ。
生来、何も考えないでいられる(ように見える)動植物は、そのままで愛らしい。美しいと感じられる時さえある。かれらは、ただそのままで、ヒトがかってに美だの醜だのと断じるのだ。
何も考えない。それはヒトにとって、無重力の世界に真っ裸でいるようなものだ。
でもそれは人間の一つの完成形のように見える。「ただあるがままを受け入れる」まっさらな、無心で無垢な状態に見える。
ただ、在る。争おうとも思わない、思えない。自己顕示欲も、ハバツをつくろうとか、認められようとか、力を持とうとかいう願望もない。空木 のように表面は樹皮に覆われ、木枝の形はしているが、芯はなく、中は空洞なのだ。
いのち、ひとつ生まれて、そのいのちが元より無私であったとしたら、何もわざわざ「こうなろう」とする目標など必要としない。目的を持つこと、それは意思であるからだ。
ただあるがままでよしとする人間は、無私である。よしとする意識さえない。それは、たいした力も要らない。決意も覚悟も、邪魔になるだけである。むしろ、力をどれだけ抜けるか。そしてどこに比重をおくわけでもない。
そんな状態に近い音楽がモーツァルトである。「二十歳の原点」の高野悦子は「今日は朝からモーツァルトなんか聴いたから、何もする気がなくなってしまった」と書いている。
これは喜ばしい状態である。何もしないがいいのだ。ただモーツァルトを聴いて、幸せな気分で一生を過ごせたら、これほど素敵なことはない。
「死ぬことは、モーツァルトが聴けなくなること」とアインシュタインがいったそうだが、まったく、モーツァルトは自由だ。
モーツァルトは、ただモーツァルトであるだけだった。それは、空木のようである。空であるから、それを聴くこちらはどうとでも解釈でき、自由を与えられたような気分になる。
「こっちはこっちで勝手にやってるからね」
モーツァルトは、何も強制しない。
そして、そんなふうに彼の音楽を聴くぼくを、モーツァルトは少し横を向いて微笑んでいる。その微笑がどんな意味を持つのか、その解釈さえ「どうぞお好きに」と彼は包容する。
その音楽は、空気のような存在かもしれない。べつにその存在を知らなくたって、生きていける。
「でも、知らなくていいことなんてないんだよ。何かを知るために、ヒトは生きてるんじゃないかネ。そうして、もしきみがホントに何かを知ったら── その暁には、ボクの音楽はホントに空気になる。耳をそばだてなくても、きみの体内に息づくよ」
モーツァルトは、何も言わないまま、そう言っているように聴こえる。
冬、落葉樹は自然に葉を落とし、自らの根元を覆う。霜から、その身を守るように。
ヒトも、あれこれと雑
だが、それを乗り越えるには、乗り越えようとリキむまでもない。
そして何の自覚もなく、「乗り越えられた」状態になること。
懊悩は、その過程としてある。
ピアニストの誰かが「モーツァルトは難しい」と言っていた。理由は「シンプルだから」。
単純だから、難しい。カンタンなことを表現するのは、実は難しい。そんなニュアンスも含まれると思う。文章を書くのも、同じようなものだろう。生活をして行くのにも、人々の中で表現が必要になる。簡単な言葉で真意が伝わり、単純な態度で理解し合えたなら、何も難しいことはない。
だが、なかなかそうはいかない。
「そうはトンヤがおろさない」のトンヤが、どこにいるのか知らないまま、おろされないものがあるために、おろされることを望み、失望したりまた求めたりを繰り返す。単純な中に真理があるのはホントウで、しかし単純なままでは済まされず、ハンダごてが必要になる。
そうこうするうちに、事の本質、もともとの原因、実態、本体が行方不明になる。
〈 パンツをはいたサル 〉のやむなき悲喜劇のように見える。
何も考えないのがいい。だが、いくら何も考えないようにしようとしたところで、それはムリな相談なのだ。ヒトとして備わった性能を、それは放棄しようとすることになるからだ。
生来、何も考えないでいられる(ように見える)動植物は、そのままで愛らしい。美しいと感じられる時さえある。かれらは、ただそのままで、ヒトがかってに美だの醜だのと断じるのだ。
何も考えない。それはヒトにとって、無重力の世界に真っ裸でいるようなものだ。
でもそれは人間の一つの完成形のように見える。「ただあるがままを受け入れる」まっさらな、無心で無垢な状態に見える。
ただ、在る。争おうとも思わない、思えない。自己顕示欲も、ハバツをつくろうとか、認められようとか、力を持とうとかいう願望もない。
いのち、ひとつ生まれて、そのいのちが元より無私であったとしたら、何もわざわざ「こうなろう」とする目標など必要としない。目的を持つこと、それは意思であるからだ。
ただあるがままでよしとする人間は、無私である。よしとする意識さえない。それは、たいした力も要らない。決意も覚悟も、邪魔になるだけである。むしろ、力をどれだけ抜けるか。そしてどこに比重をおくわけでもない。
そんな状態に近い音楽がモーツァルトである。「二十歳の原点」の高野悦子は「今日は朝からモーツァルトなんか聴いたから、何もする気がなくなってしまった」と書いている。
これは喜ばしい状態である。何もしないがいいのだ。ただモーツァルトを聴いて、幸せな気分で一生を過ごせたら、これほど素敵なことはない。
「死ぬことは、モーツァルトが聴けなくなること」とアインシュタインがいったそうだが、まったく、モーツァルトは自由だ。
モーツァルトは、ただモーツァルトであるだけだった。それは、空木のようである。空であるから、それを聴くこちらはどうとでも解釈でき、自由を与えられたような気分になる。
「こっちはこっちで勝手にやってるからね」
モーツァルトは、何も強制しない。
そして、そんなふうに彼の音楽を聴くぼくを、モーツァルトは少し横を向いて微笑んでいる。その微笑がどんな意味を持つのか、その解釈さえ「どうぞお好きに」と彼は包容する。
その音楽は、空気のような存在かもしれない。べつにその存在を知らなくたって、生きていける。
「でも、知らなくていいことなんてないんだよ。何かを知るために、ヒトは生きてるんじゃないかネ。そうして、もしきみがホントに何かを知ったら── その暁には、ボクの音楽はホントに空気になる。耳をそばだてなくても、きみの体内に息づくよ」
モーツァルトは、何も言わないまま、そう言っているように聴こえる。
冬、落葉樹は自然に葉を落とし、自らの根元を覆う。霜から、その身を守るように。
ヒトも、あれこれと雑
葉
に追われ、考え、悩む。それがヒトであるからだ。だが、それを乗り越えるには、乗り越えようとリキむまでもない。
そして何の自覚もなく、「乗り越えられた」状態になること。
懊悩は、その過程としてある。