第231話 幸福

文字数 850文字

 モーツァルトと、冷やっこと、ヱビスビールがあれば幸福だった。

 ひとりで、嬉しい時間。

 だが、その時間が永遠に続くわけもない。ずっとモーツァルトを聴き、冷ややっこを食べ、ヱビスビールを飲み続けることはできないからだ。

 その時間は眠気、満腹、もう飲みたくない、という身体の訴えによって終了する。

 気持ちも、満足したかのようだ。

 で、眠り、朝になり、仕事に行く。帰ってきて、大浴場に行って、食堂に行って部屋に戻って、テレビなんかを見て── そんな生活を何年続けたろう。自動車工場に勤め、寮生活をしていた頃だ。

 独りだったから、人を求めることができた。友達らしき人もいて、職場に行くこともつらくなかった。

 何しろ、「働くためにここにいるんだ」という強い思いがあった。ここで働けなかったら、自分にはもうこの世の居場所がない、そんな思いで、「出稼ぎ」に行った。初めての一人ぽっちの部屋、知らない土地、仕事。一生懸命、やらざるを得なかった。そういう状況、環境を求めた。そうなろうとして、そうなった。

 求めよ、さらば与えん、とかいう言葉もあるけれど、結局自分で求め、その自分がいたから、その自分へ何か「与えられた」という状況だった。基本は、「そうなるように求めた自分」だった。

 大きな工場だったので、配属先を告げられる時間は緊張した。これから毎日勤める仕事場。こればかりは、選べない。上司、先輩、どんな人に当たるのか、わからない。

 でも、とにかく追い詰められた気持ちでいたから、どんな人とでも仲良く、人を拒まず、「一生懸命仕事をすること」(人を拒んでは仕事が覚えられない、支障を来たす)、自分が生きるために働くんだ、という気持ちだけで働いていた。

 彼は昔の彼ならず。そんな言葉もあるけれど、僕は昔の僕ならず。今、あのエンジンをつくる仕事ができる体力が、自分にあると思えない。そして気力も、そっちの方向へ向かない。

 今、このとき、できることをする。できることしか、できない。この諦念めいたものだけが、変わらずにある。
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