第52話 ブッダのこと

文字数 1,354文字

 もう10年近くなるが、父が亡くなったとき、あ、うちは浄土宗なんだ、と知った。
 お寺にお墓をもつ家であれば、~宗、という、いわゆる「宗」に属することになる。
 日本でいちばん多いのは浄土真宗であるらしいけれど、ほかにも真言宗、臨済宗、日蓮宗とかいろいろありそうだ。
 だが、ブッダのはじめた、いわゆる「仏教」は、日本には無いと思う。浄土宗は法然が始めたものだし、真宗は親鸞、真言宗は空海、天台宗は最澄。
 ギリシャに生まれたなら、ソクラテスとともに哲学者になったろうゴータマさんは、べつに「お経をよめ」とも「葬式をしろ」とも「座禅を組め」ともいっていない。極楽があるとか地獄があるとか、そんなことは一言もいっていない。それなのに、「仏教」と一括りにされている。
 ただ一つ、「人が苦しまないでほしい」が、ブッダの本懐だったと思う。
 人が苦しまなければ、それでよかったのだ。
 つめたい言い方をすれば、「自分のことは自分でしっかりやりなさい」というのが、「仏教」の基本的な考え方だと僕は思う。

 それを神格化…仏格化?したのは、かれにすくわれた多すぎるような「弟子たち」で、ブッダはただ「自分のやるべきこと」をしただけだと思う。
 手塚治虫も描いていたが、おおらかで、思いやりがある、やさしい人間。それがシッダールタの原点だったはずなのだ。

 僕は十代の頃からそうとうの宗教アレルギーだった。そんなに親しくなかったクラスメイトから、中学卒業後「久しぶりに会わない?」みたいな電話をもらい、のこのこ待ち合わせの喫茶店に行った。すると、「おシャカ様はね…」などと言われ、面食らった。宗教の勧誘だったのだ。もちろん断った。何か怖い目つきだったし、僕は腹も立ち、自分の分の飲み物代をレジで払ってサッサと逃げた。

 僕は「巣鴨のお地蔵様」が好きな、おかしな子どもだった。その頃から「宗教的なものは自分の

ついてくるものだ、と確かに考えていた。カミとかホトケ、そのような類いのものが自分を導くのではない。自分の足が、まず先なのだ。お地蔵さんは、後ろにひょっこり、野の仏みたいにいてくれたらいい。
 絶対的に信じる怖さを、子ども心にも漠然と感じていたのだと思う。

 しかしこう書いていて、自分でもげんなりする。ブッダ、とか書くと「宗教か!」と読む人に思われそうで、気が引けるからだ。
 僕はあくまでシッダールタという人間が好きだし、かれが革命家であろうが夢想家であろうが、どうでもいいことなのだ。一つの人生の目的みたいに、あんな人間になりたいとおもう。

 自分の中に、さまざまな問題を解決する糸口がある。いや、自分の中にしかない── それを相手におのずと気づかせるのが、現代でいうカウンセラー的な、ブッダの「対機説法」だったと思う。
 ソクラテスがアテナイの広場でしていた「対話」と、その態度が似ている。真理・普遍的なものに向かう姿勢は、二人、同じだったと思う。(しかし真理なんて言葉を使うと、何年前かに起きたカルト集団のばかげた事件が思い出され、やはり気が引ける)
 そしてソクラテスもブッダも、言葉は他者との間にのみ

ということを知っていた。
 そう、天気もいいし、机にかじりついているのはよくない。
 今日は、紙ヒコーキの飛行場に行かなければ。
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