第272話 タバコ屋(1)

文字数 936文字

 タバコ屋へ行く。

 台風は大丈夫でしたか、とお姉さん。

 ええ、うちは大丈夫だったんですけど、近所の家の瓦が落ちて。うち、土手沿いにあるんですけど、市が植えた桜の木があって、その枝が二階の屋根まで伸びてるんですよ。それで瓦が落ちちゃったと思うんですよね…

 そんなことを言ってみる。そう、一昨日、土手を歩いていたら瓦が数枚、折れた(けっこう太い)枝とともに落ちていたのだ。上を見れば、その家の二階の屋根に枝が乗っかるように触れている。

 あ、こりゃ大変だ。また雨でも降ったら雨漏りしてしまう。土手の方は裏庭だし、きっとこの家の人、気づいていないんじゃないか。そう直感して、家に帰ったあと一緒に住むひとに「知らせた方がいい」みたいに言った。

 だが、その家の人と面識がない。こないだ町内会に入ったばかりで、うちは立地的にその町内ともちょっと離れたような場所にある。

 町内会に入る時、手続きをしてくれた〇〇さんの連絡先なら知っている。その瓦が落ちた家は、地図を見ればその〇〇さんの隣である。

 てきぱきと、そこまで調べた彼女に私は携帯電話を差し出した。うまく事情を説明できる自信がなかったから。「コミュ障だから」とも言ったか。

 彼女が電話してくれて、やっと私も落ち着けた。

 翌日、その瓦が落ちた家の奥さんがお礼に来てくれた。やっぱり気づいていなかったそうだ。ああよかった…。

 タバコ屋のお姉さんは、それだけで済んでよかった、って思うこともできますね、みたいに言う。私は、そう、何かもっと悪いことと比べれば、そうなりますよね、みたいに言う。

 ここで、妙なスイッチが入ってしまった。

「なんで比べちゃうんでしょうね、比べなくてもいいのにねえ」

 マウイ島の山火事とかも…。そう(比べる)しないとポジティヴになれないっていうか。とお姉さん。

 うん、後ろ向きがないと前向きにもなれないのに…。なんか、宗教みたいじゃないですか、みんな前向きがイイ、前向きがイイって。考えることをしなくなっちゃうっていうか。考えたいですね、ぼくは。

 何となく、話してもしょうがないような話をしてしまって、あとで自己嫌悪になった。でも、お姉さんも真剣そうに聞いてくれていた感じがしたし、これはこれで仕方ないのかなと思う。
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