第82話 夢に出てきた大谷翔平
文字数 1,637文字
明け方に見た夢。僕と、亡くなった父と三人で食事をした。父が「昔の野球はね…」と話すのを、大谷選手は「へえ」とか「はあ」とか相槌を打ちながら、よく食べていた。ずいぶん自信家で、けっこう太っていた。自信が今の成績をつくり、成績が自信をつくるという相乗効果が、彼の中で間断なく回っている印象を受けた。
インターネットをしない生活をしていた間も、ラジオのニュースの時間に「アメリカ大リーグ、エンジェルスの大谷選手は、昨日のヤンキース戦で…」とよく取り上げられ、暗い事件の多い中で唯一の明るいニュースのようだった。
稀代のスーパースターは、でも夢の中ではどこにでもいるような、ちょっと太った普通の青年だった。
暗い事件といえば、… いや、腹が立ったのは、あの園長の謝罪会見、預かっている人様の子供を、その仕事を、責任を全く感じることなく、他人事のように扱うという、信じられない精神だった。
もうボケていたのか、言ったことを弁護士から訂正されると、ヘラヘラ笑っていたのである。あの笑いには、ほんとうに腹が立った。園児が亡くなったことなど、自分には関係ないという、自分のことしか考えていなければ、出てくることのない笑いであった。いったいどうしたら笑えるのか。しかも、だから無邪気な老人の笑いだった。
その「長」に飼い慣らされた副園長もからっぽな、からっぽの余地さえ無いような婦人に見えた。
どうしてそういった人間ができてしまうのか、考える。ただ仕事をすればいい、子供を預かって
しかも「廃園になるかもしれないね」と笑った無邪気さには、そこで働く職員のことを、紙の薄さほども考えていないことが分かる。
僕が親として子供の送り迎えをしていた頃、オレがもっと稼ぎが良ければ、園なんかに子を預けないで済むのにという自分への不満から、園の先生に不満を抱いていた時期もあった。モンスターペアレントとかクレーマーの一歩手前だった、といっていいかもしれない。
実際、そういう親や人間はいるだろう。自分に不満を持たない人間は、まわりへ必要以上に不平不満の種を探すことはしない。
あのような人間をつくったのは、誰なのかという話だ。彼らは異常だ・普通でないとするのは、それこそ無責任な線引きで、彼らが仕事に向き合う姿勢と同じ、自分のことでないとする、保身的で無責任な、他人事として人と自分を引き離す、同臭のにおいが立ちのぼってくる。
日頃に目にする禍々しい事件は、いっさいは他人事なのだとすれば、何も変わらないことになる。
自分以外の人間が、他人であることは事実だろう。でも、だからといって切り離し、まるで別世界のいる人のように、その人の悪徳なり行為を捉えるのは、彼らと同じ無責任さを自己に生じさせることになる。他者を、自己から根本から離して考えることは、人間には不可能な思考だ。
あの園長の無責任さは、切り離せないものを切り離そうとした、またそうして仕事が成り立っていたという、今までの時間のおそろしい露呈のように思える。
かくして、明るいニュースを求めるようになる。つらいことを想像したくもないし、何も考えずネットサーフィンをしていたいとおもう。好きなものだけ目にできるからだ。だが、しかしまた、聞きたくもないニュースを聞くことになるのだ。
悪事をはたらく者と、自分は違うと考えることは、自己正当化の、小さすぎる自己満足と似た道程を感じる。自分が卑小な人間であることは否応なしに僕は自認する。でも、それと、不幸な事件を起こす人間のことは、別でありながら、形象は別でありながら、内実は異であると口が曲がっても言えない。
最近、よく具体的な夢を見るのは、現実逃避したい自分の願望の発露なのかもしれない。せめて夢の中くらい、明るく、という。
そしていつまでも寝ているわけにはいかないのだ。動揺の中にしか、人は存在し得ないとでもいうふうに。
インターネットをしない生活をしていた間も、ラジオのニュースの時間に「アメリカ大リーグ、エンジェルスの大谷選手は、昨日のヤンキース戦で…」とよく取り上げられ、暗い事件の多い中で唯一の明るいニュースのようだった。
稀代のスーパースターは、でも夢の中ではどこにでもいるような、ちょっと太った普通の青年だった。
暗い事件といえば、… いや、腹が立ったのは、あの園長の謝罪会見、預かっている人様の子供を、その仕事を、責任を全く感じることなく、他人事のように扱うという、信じられない精神だった。
もうボケていたのか、言ったことを弁護士から訂正されると、ヘラヘラ笑っていたのである。あの笑いには、ほんとうに腹が立った。園児が亡くなったことなど、自分には関係ないという、自分のことしか考えていなければ、出てくることのない笑いであった。いったいどうしたら笑えるのか。しかも、だから無邪気な老人の笑いだった。
その「長」に飼い慣らされた副園長もからっぽな、からっぽの余地さえ無いような婦人に見えた。
どうしてそういった人間ができてしまうのか、考える。ただ仕事をすればいい、子供を預かって
やって
いるのだ、他人のことなんかどうでもいいのだ。そんな態度か、心根の。しかも「廃園になるかもしれないね」と笑った無邪気さには、そこで働く職員のことを、紙の薄さほども考えていないことが分かる。
僕が親として子供の送り迎えをしていた頃、オレがもっと稼ぎが良ければ、園なんかに子を預けないで済むのにという自分への不満から、園の先生に不満を抱いていた時期もあった。モンスターペアレントとかクレーマーの一歩手前だった、といっていいかもしれない。
実際、そういう親や人間はいるだろう。自分に不満を持たない人間は、まわりへ必要以上に不平不満の種を探すことはしない。
あのような人間をつくったのは、誰なのかという話だ。彼らは異常だ・普通でないとするのは、それこそ無責任な線引きで、彼らが仕事に向き合う姿勢と同じ、自分のことでないとする、保身的で無責任な、他人事として人と自分を引き離す、同臭のにおいが立ちのぼってくる。
日頃に目にする禍々しい事件は、いっさいは他人事なのだとすれば、何も変わらないことになる。
自分以外の人間が、他人であることは事実だろう。でも、だからといって切り離し、まるで別世界のいる人のように、その人の悪徳なり行為を捉えるのは、彼らと同じ無責任さを自己に生じさせることになる。他者を、自己から根本から離して考えることは、人間には不可能な思考だ。
あの園長の無責任さは、切り離せないものを切り離そうとした、またそうして仕事が成り立っていたという、今までの時間のおそろしい露呈のように思える。
かくして、明るいニュースを求めるようになる。つらいことを想像したくもないし、何も考えずネットサーフィンをしていたいとおもう。好きなものだけ目にできるからだ。だが、しかしまた、聞きたくもないニュースを聞くことになるのだ。
悪事をはたらく者と、自分は違うと考えることは、自己正当化の、小さすぎる自己満足と似た道程を感じる。自分が卑小な人間であることは否応なしに僕は自認する。でも、それと、不幸な事件を起こす人間のことは、別でありながら、形象は別でありながら、内実は異であると口が曲がっても言えない。
最近、よく具体的な夢を見るのは、現実逃避したい自分の願望の発露なのかもしれない。せめて夢の中くらい、明るく、という。
そしていつまでも寝ているわけにはいかないのだ。動揺の中にしか、人は存在し得ないとでもいうふうに。