第66話 たとえばこんな小・小説。

文字数 1,175文字

「人間に、もっとも強く、その念を発せらすものは、憎しみ、恨み、怨恨といった『負の感情』です。それは往々にして、命に関わった際に発揮され、断末魔の叫びのようにその土地に染み渡ります。そして永遠に消えず、その地、つまりこの地上に残り続けます。眼には見えないものですが、その憎悪の念は、やがて誰かへの攻撃性となって、一個人の体内に巣食います。この世から戦争がなくならないのは、不本意に死んだ人間の怨念、憎悪の念が、今を生きる一個人一個人のなかに刻まれ、その念が人を突き動かすからです。
 人間という種族は、動植物と同じように、一定の種としてこの世にあり続けています。その歴史の中には、むろん疫病、災厄をもたらすウイルスとの闘いもありました。ですが、ほかの動植物と同じように、免疫・抗体、身体としての学習をし、今もこの世に残存しているのであります。」

「ところで、何もそれは身体に限った話ではありません。身体を動かすものは、眼に見えぬ『気』であります。それは、あさがおが近くの棒に絡み付くように、イタチが土中のミミズを感知するように、本能として刻まれた、生きるために、その種が生き残るために自然発揮される一つの能力です。
 さてその自然、自分の意思にかかわらず発揮されるその能力というのは、実はその個々の生命体を(つかさど)る、残存記憶に依るところが大きいのであります。
 その記憶とは、さきほど申し上げた、断末魔の叫び、一つの命が終わる際の一念であります。
 自分は、このように不本意に死んだ。こんなのは、とうてい納得ができない。恨んでやる。死ぬまで恨んでやる── そんな『負の念』を懐に抱きながら死んだもの、その種族は、くりかえし無益な戦争をします。
 そう、人間だけですね。ほかの動植物は、生きるため以外に、無駄な争いをしません。お腹が一杯なら、ライオンも、そばに牛が通っても食べようとしませんね。でも人間は、いくらお腹が満たされていても、食おうとするのです!」

「このわたしの説は、誰も信じません。つまり、根拠が、眼に見える、だから納得のできる、証拠がないからです。
 ですから、いちど、試してみるといいかもしれません。あなたが死ぬとき、それがどんな人生であれ、よかった! 自分は自分なりに生きたのだ! と、納得して最期の瞬間を迎い入れたなら、そしてそういう死に方をする同族が増えたなら、おそらく人間という種族、そんな、戦争、あらそいを好まない生理が徐々に徐々に体内に埋め込まれ、ながい歳月はかかりましょうが、やがてそこら辺の動植物と同じように、無益な戦争をしない種族になることでしょう。
 何百年という、ながい時間が必要です。あなたは、それまで、待てますか。」

 ── 老人はそう言って、白く染まった顎鬚(あごひげ)をなでた。
 ぼくは、少し考えているあいだに、時が流れ、何も考えずに死んだ。
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